バンド心性と大集団心性: 断章
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断章1
部族社会の成員は自分の部族以外の人間に対して道徳的な責任を感じることはない。
断章2
シャーマンの倫理と大集団の倫理が一致するか?
断章3
貨幣経済と自然科学は数値化という点で一致している。
断章4(->6)
人間のバンドは、成員が互いに分化しているという点で類人猿の群と異なる。
哺乳類は個体の完成度が高いが、社会的な個体の分化という点では例えば蟻や蜂と比べてずっと完成度が低い。
言葉の発達と社会的な分化の発達とは平行している。
断章5
バンドの場合のように、一人一人が違う人間として自然に認められていれば、「I(私)」は存在しない。「I」は人間同士の互換性を暗示しているから、大集団的要素が出てこないと意味を成さない言葉だ。
断章6(<-4)
個人というのはしかしバンド的な人間関係の中にいなければ存在価値がないと思います。身近な人々との相互作用を通じてある特色を持った個人へと成長していき、その特色がバンドの人々からも認知される。そこに人間の幸せがあるようです。
バンド社会が何万年も続く中で、こうした分化能力が次第に強まっていったのではないか、というのが僕の最近の妄想です。バンドの各成員が専門化していくことによりバンド全体としての適応能力は増大していくわけですが、そのためには言語の発達も必要だったでしょう。つまり、鹿狩りの名人と芋掘りの名人とがお互いに協力していくには、相手がやっている、自分には理解できない作業についてコミュニケートしていかなければならないからです。
大集団化というのはこうした分化能力の発達の極限として生じた爆発的な現象だったような気がします。人間が自然に作る集団規模では、分化によって生まれた知恵を次世代に伝え、増強していくことがもう不可能になる時が来ます。大集団化には、王の号令のもとに一万の兵隊が突撃する、という斉一的な側面もありますが、集団が大きいだけにバンド時代よりもきめの細かい分化が可能という面もあり、また同じ専門分野に多数の人間がいるために互いに教えあったり競争したりして専門技術をさらに磨くことが可能になり、また次世代への受け継ぎも確実になります。
ただ、個人としては自分の集団内に置ける重要性の感覚が得にくいためにあまりハッピーではないということになります。我々が苦しむねたみやうらやみの感情は、バンド社会であれば、つまり自分と同じ専門の、しかももっと腕のいい奴が存在するときに感じるネガティブな感情であり、何か異なる技を発達させるか、あるいは近隣のバンドに移ったりしてこの感情を解消したのではないでしょうか? バンドとしても得意技が同じ成員をたくさん持っているよりも、一人一人が異なる技を発達させた方がバンドとしての生活力が高くなるわけですから、こういう感情はダーウィン流の適応価値を持っていたでしょう。でも大集団の中では他にどこにもいきようがないから、ふてくされるしかない。それに、機械化が進む前の大集団社会では、自分に自信をなくして鬱鬱とした成員にうってつけの人海戦術の反復作業がたくさんあったから、これらの成員が幸福でないということが社会としてはプラスだったのかも。
[tribe 2212] Re: 集団論の展開
バンドの中では、一人一人が得意技を磨いていって、そのために
バンドそのものの活力が増すのだと思います。
ただ、技を磨くといっても一人で始めからやり直すのではなく、
世代間の技術の受け渡しがあると思います。
それも父から子供へ、といった狭い範囲ではなく、
例えば、弓を作るのがうまい男はバンドの中で
ものになりそうな子供をみつけてその子に弓作りを教え込む、という形で、
バンド全体として文化を継承していったのではないでしょうか。
個人のアイデンティティは、「弓作り」「芋探し」「いだてん(走るのが速い)」
といった得意技と一致していて、極めて安定したいたのだと思います。
バンドの中では一人一人が違っていることがバンド全体を強くしたのです。
大集団になると、斉一的な行動が重要になってきます(軍隊の行進とか)。
断章7
何不自由ない家庭で育った少年が「町中皆殺しにしてやる」といった殺意を持ってしまう。コロラドのコロンバイン高校を始めとして、こういう例は最近よくある。物質的には満たされていても人間関係の面で、あるいは行動の自由という面で現代の子供たちはひどく貧しい環境で育つ。でも彼ら自身物質主義のまっただなかにいるから、自分に何が欠乏しているのかがわからない。わからないけれどひどい状態であることは直感している。こういうとき、まわりの状態を物質的にも破壊してしまうことにより、自分が内側で感じていることに外部世界を合わせようという衝動が生まれるのではないだろうか。
いわゆる終末思想というのは、こういう衝動の集団的な表現だろう。サイエンスフィクションでも世界の終わり、最後の生き残り、といったテーマが繰り返し登場する。
断章8
各個人の個別の世界同士をつなぐことによって人の集団は強力になって文明が発達したが、個人は自分の世界の帝王から共同の世界の無名人に身を落としてしまった。
坐禅で我々が回復しようとしているのはこの「自分がこの世界の主である」という感覚である。
断章9
ホモサピエンスは個人を細胞とする多細胞生物としての道を歩み始めたのだ。単なる細胞の群れと多細胞生物との違いは、個々の細胞が役割的に分化しているかどうかという点にあるのだから。バンド社会は、個人が分化しているという点ですでに多細胞生物化しているが、他の成員とは違うことに秀でようとする欲求によって一人一役を実現するという方式だったために、バンドの規模が制限されていた。大集団社会はその制限を突破したわけだが、分化という点ではバンド時代の傾向をさらに進展させているのだといえる。
断章10
我々日本人には、韓国人は自己主張が強いように見える。韓国人の夫婦げんかはわざわざ外に出て近所の人達が見物できるところでやり、互いに隣人たちの支持を求めて演説するのだというのをどこかで読んだことがある。なるほどこれは日本ではちょっとみられない風景だ。
ところが、河合隼雄氏によると、彼らの自己主張は自分の大家族の外の人間に対してだけ発揮されるのであって、一族のもの同士になると長幼序ありでとても従順になるのだという。そうすると、夫婦げんかも個人の争いというよりは自分の一族を代表して夫や妻と争っているわけだ。韓国では親戚関係にある男女は結婚しないから、夫婦はつねに異なる血族からきている。
こういう自己主張は私もする。アメリカに住む日本人として、ときに不公平な日本批判を聞くとむきになって反論する場合がある。自分が日本を代表しているという感覚があるからだ。でも、こういうのは血族とか、会社とか国とかへの帰属感から来ているのである。
アメリカ人の個人観というのはこれと違って、一人一人の人間が互いにまったく違っていてユニークである、という立場を取る。アメリカ人だって社会的に活動するためにはなんらかのグループに属するわけだが、その場合には帰属ということよりも契約ということが大事にされる。
(秘密の共有による結束というのは部族や血族と契約関係のちょうど中間にある。)
(部族や血族はバンド的かというと、そう簡単でもない。これは別に論じる必要あり。)
部族のアイデンティティが強すぎると、超部族的協力がむずかしい。アメリカは、普遍的な価値に基づく契約を個人が結ぶという形で個人が部族から解放されている。日本は、とにかくそこにいる人達と仮のバンド的結合をする、という形で部族の壁を乗り越える。この2つの国は、部族のしがらみから開放されているという点で、世界の最先端をいっている。
断章11
バンドは、個体間の分化が進んでいるという点で、ただの群とは違う。普通の哺乳類の群というのはただ群れているだけである。そこには役割分担というようなものはあまりみられない。日本猿の群の中の個体間に順位がある、といってもその順位は猿が群として行動するときのなんらかの機能的な関係を示すものではなく、断章9で述べたように、個体の縄張り意識が群生活の中に残っていることを示すに過ぎない。たとえば、猿の場合、自分が食べる植物や動物をどうやってみつけたらいいのか、各個体が知っている。
人間のバンドはこうした群とは違っている。バンドの中で個体は特殊な役割に分化していく。弓作りの名人はバンドに1人だけで十分だ。後のものは彼の作った弓を使うか、あるいは彼に教わって優秀な弓を作ることができる。いずれの場合も、弓を使うもの全てが弓作りの高度なノウハウを知る必要はなくなっている。
人間の一生は無限に長くはないし、脳の容量にも限りがある。ある技術を深く究めるためには、他のことをなおざりにしなければならない。全ての個体が同様に生活技術を学ばなければならないとすると、どの技術もそれほど深く究めることができなくなる。分化の恩恵はここにある。弓作りは、獲物の足跡を見てそれが何日前に通ったか、元気か、傷ついているか、等を判断するための修行を究めなくてもいい。それはそっちの専門家にまかせればいいからだ。そのかわり彼はもっとも遠く、もっとも正確に飛ぶ弓矢を作ることでバンドに貢献できる。
分化はもちろんバンドで留まるものではなく、大集団社会ではさらに徹底した分化が進められている。今日の工業化社会で住む人々の中で、自然の中で自分の食べ物を獲得する能力のある者はほとんどいない。農業に携わる者でも、自分では作ることのできない道具や機械に頼って作物を育てている。
バンド社会は分化の道を歩み始めたが、集団の規模は類人猿の群のときとあまり変わらなかったようだ。互いに近接して一緒に暮らさないと分化そのものが進まない、という条件が群の大規模化を遅らせていたのかもしれない。
断章12
バンドの成員は機能分化している。そこが単に数を頼む集団との違いである。人間以外の哺乳動物集団でこれほど機能分化が進んでいるものはない。現在バンド単位で生活している人々の場合でも、機能分化はそれほど進んでいないようにみえる。機能分化の程度としてはチンパンジーとあまり変わらないようなバンド生活をしている人々もいるので、バンドという言葉の使い方に注意が必要だ。とりあえず、機能分化が進んだバンドを分化バンド、そうでないバンドを原始バンドと呼ぶことにする。ただバンドといえば分化バンドのことだと思って欲しい。
分化バンドが生じる前には極めて長い原始バンドの時代があっただろう。そして、成員間の機能分化が生じて分化バンドの時代となる。ここで問題になるのは、どうして人間の場合に分化が可能になったかということだ。
断章13
るいネット投稿25199
・第三部:滅亡
集団適数150人説について調べてみました。
佐々木健二
( 22
徳島
企画 )
02/02/28 AM00
ロビン・ダンバーの集団適数150人説。
興味深く拝見しました。
蛇足を覚悟で、Googleで検索した結果わかったことを投稿します。
◆ダンバーの主張
ダンバーは「150」が数々の資料に出てくることを調べ上げたらしい。
「この規模であれば、個々人の忠誠心と直接的な対人関係を基本にして、秩序はおのずと維持され、行動も規則なしで統制できる。規模がこれ以上大きくなると、それが不可能になる」
◆ダンバー理論を体現した企業
ゴア・アソシエイツ社。
創業者のウィルバート・ゴアは経験則から、組織が150人に達すると、分割してきたとのこと。
同社メーカーだから、工場ごとに150人というわけです。
同工場で働く150人の社員たちは、上司の指示、組織図、企業戦略は必要とせず、仲間のために懸命に働くとのこと。
結果、上司は存在せず、組織図も企業戦略もない企業で創業時のベンチャー精神を維持し、35年間黒字を計上、年商10億ドル規模の大企業。
断章14
・前史 進化論 ・前史 サル時代 ・前史 始原人類 ・第三部:滅亡
社会システムの単位は何か? 阪本剛
( 28 千葉SE )02/02/27 PM03
では、さらに広域の社会関係=地域外の関係を視野に入れて、地域共同体に根ざした「労働」を支える経済システムは、どのようなものが考えられるでしょうか?
◆大脳生理学的な観点から見た集団の適性規模
人類学者のロビン・ダンバーという人は、霊長類の大脳新皮質(新しい脳)の大きさと、それぞれの種のサルが形成するグループ(社会集団)の大きさとの関係を調べました。
すると両者の間に、かなりはっきりした相関性があることが分かったのです。
つまり、それぞれの種がつくる社会集団の平均的な大きさが増加すればするほど、大脳における新皮質の割合もまた増加する、というのです。
(なお、霊長類の脳の大きさを、社会行動の複雑さに由来すると考える仮説を「社会脳仮説」と言います。)
ダンバーはまた、ヒトの大脳新皮質の大きさ(割合)から、人間がつくる社会集団の平均的大きさを逆算しました。
すると人間の脳が処理できる集団の大きさは、メンバーが150人程度であるらしいのです。
確かに人類がその歴史の9割以上を過ごした、狩猟採集生活において、基本的な社会集団であるバンドは100人を越える程度でしたし、多くの部族社会での集団規模もこの程度です。
ローマ時代から近代軍隊まで、「中隊」の人数は100〜200人程度です。
断章15
一万年前ごろに人類に起こった変化は、個人にとっては表層的なものであったが、集団として人間の行動を大きく変えてしまった。今日に至るまで、個人は自分の行動のどの部分が社会に大きな影響を与えているのかについての認識があいまいである。社会的行動は、結果としてすばらしくも恐ろしくもある大変化を生み出すのだが、それでも個人の魂の中でそれが占める位置は極めて小さい。宗教は無茶とも言える議論によって個人が自分の行動の社会性を認識できるような道をつけようとする活動だといえる。
断章16
共産主義は大集団的な理想の状態をヴィジョンとして持っていた。すなわち、みんながみんなのために働くということだ。だから説得力があった。しかし、その理想の実現手段として階級闘争を持ってきて、しかも労働者階級が「正しい」と定義してしまったことから有効性を失い始めた。人間の持っている部族的な狭量さを認識しない甘さがあった。
断章17
(040803)現代社会が無痛文明化しているのは、もし人が痛みを感じた場合に、両親との関係における無視や虐待の精神的な痛みを思い出して錯乱するからではないだろうか。
断章18
(040803)北朝鮮やイラクではリーダーシップが世襲制になっている。しかし中国やロシアではそうではない。これらの国々は現代社会的な国の建設に苦労しているという点では似ているのにこうした違いが出るのはなぜだろうか。前者が極めて強力な締め付けによってのみ国の統一を保てる状態であり、後者は資本主義的な活動が広範に可能になっているということを考えると、大集団社会化への道筋において後者が先に進んでいるということが考えられる。
断章19
(040803)大集団社会は他人同士の関係が必須であるので、他人同士の接着剤として、もともと存在していた親子関係や男女関係の愛着が流用(転用)された。そのために本来の親子関係や男女関係にゆがみが生じて人々が苦しんだ。しかし、人々が大集団的な関係に慣れてくるに従って、こうした転用の必要性は減ってくる。従って、そのうちに親子関係や男女関係はバンド時代、あるいは一家族時代の自然な形態に徐々に復帰していくだろう。
断章20
(040803)ウマの集団もサルの集団も順位制があるようだが、その違いは何か?
断章21
(040803)哺乳類の群れにおいては、縄張り行動が順位制という形で表れる。順位の高い個体と低い個体が出会った場合、順位の高い個体は縄張りの主のように強気になり、順位の低い方は他人の縄張りに入って臆病になった状態と同じような行動を示す。この順位制は群の行動を規定してはいるがそれ自体として群にとって有益なものではない。
断章22
断章23
断章24
断章25