バンド心性と大集団心性

 

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バンド心性と大集団心性関係の断章へのリンク

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目次

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主論文(980414)

 

·  主論文に基づく諸考察


·         断章(考察にまでまとまっていない思考断片)(000117より新登場。随時更新!!)


·         考察1: 上意下達システムが個人の心理に与えた影響(980506)

·         考察2: 自然科学的な世界観の発生(980520)

·         考察3: 誇りを持てない現代の青少年(980527)

·         考察4: 大集団の登場と宗教---コスモロジーの変化(990204)

·         考察5: エクスタシー---大集団の積極面(990213)

·         考察6: バンド的関係の形成---我が家の2匹の猫(990406)

·         考察7: エクスタシーの現象面(990407)

·         考察8: 大集団的関係の本質的一過性とその克服(990407)

·         考察9: バンド的人格の形成と大集団社会での応用(990614)

·         考察10: 「個人」という存在(990622)

·         考察11: 「性格」という幻影(990805)

·         考察12: バンド集団の効率と大集団の効率(990808)

·         考察13: ヨーロッパは何故世界を制覇できたか?---大集団原理の強さ(990810)

·         考察14: 奇跡---日常意識では理解できない大集団的現象(990815)

·         考察15: ピラミッドの意味---集団エクスタシーの焦点(990815)

·         考察16: 貨幣---集団エクスタシーの究極の焦点(990910)

·         考察17: 大集団社会におけるバンド心性の魅力と危険(990922)

·         考察18: 大集団人間の非暴力性(000117)

·         考察19: 縄張りから分化へ(010830)

·         考察20: 統一には独裁性が必要

·         考察2: 大集団の統合・運営の道具としての「恐怖」---フセインとタリバンの国内支配、アメリカの世界支配(030613)


·  主論文

(based on English rev. 3, 980413)
 歴史を通じて、人間同士の相互作用は2つの明確に異なる心性によって 支配されている。一方はより古く、有機的、非階層的で私的である。もう一方はより新しく、抽象的、上意下達的で公的である。前者をバンド心性と呼んでお く。これは先史時代に人類がバンド単位で生活していたときの基本的な心性だという意味だ。後者は大集団心性と呼ぶことにする。これは人類がバンドよりも ずっと大きな集団を形成するようになったときに出現した心性だからだ。バンド心性が顕著になりやすいのは、例えば家族や古い友人と一緒にいるときである。 他人同士でも少人数で長時間行動を共にすればバンド心性が強くなってくる。その際の我々の行動はそのときどきで彼らに対して感じることに基づいて決まる。 大集団心性が顕著に表れるのは、見知らぬ人に会うとき、そしてその人と何らかの用事を足す必要がある場合である。例えば、銀行に行って預金するという場 合、係員とのやりとりはその係員がだれかということには関係なく、預金という、両者が協力して達成しなければならない作業によって決まる。大集団心性に基 づく行動はマニュアル化しやすい。個人の幸福のために、この本来非常に異なる2つの心性の間の調和が大切である。バンド心性が抑圧されすぎると我々は疎外された不幸な気持ちになるし、大集団心性がなければ社会が機能できない。人間の歴史は、大集団心性が我々の心への影響力を次第に強めてきた過程とみることができる。そして、バンド心性と大集団心性の力関係が変わる度に、我々は調和の乱れに苦しみ、新たな調和を求めて試行錯誤を繰り返してきた。このように、この2つの心性を主要登場人物として人類の歴史を眺めると、多くの重要な出来事がシンプルな体系に収まり、今後の見通しも得られると私は感じている。
 人類が狩猟と採集によって食物を得ていた頃は、数十人のバンド単位で生活するのがもっとも適していた。集団が大きすぎ れば十分な食物を得ることが難しくなったし、小さすぎれば人数による保護が得られなかった。こうした生活は何万年もの間続いた。我々の親類である多くの類 人猿は今でも数十頭を単位に生活している。我々の先祖もバンド生活に遺伝的にも文化的にも十分に適応していただろう。すなわち、我々の先祖は時間さえ与え られれば数十人程度の規模の集団の中での自分の位置を見極めて他の成員と実りのある相互作用をする能力を生得的に持っていたのである。
 数千年前に、こうしたバンドよりもずっと規模の大きな大集団社会が出現した。それ以来、有史時代を通じて世界各地で大 集団社会が人類の主要な組織形態となっている。大集団社会出現の引き金は狩猟の獲物の欠乏、農業の発達、戦争等いろいろ考えられるが、重要なことはこの移 行により人間が機能的な集団を組織する方法に深甚な変化が起こったことであり、また先行するバンド時代に比べて変化が短期間に起こったことである。
 こうした大集団を形成し、運営するために必要な心性はバンド心性とは異なる。バンドでは成員同士が共通の経験を持ち、 お互いをよく知っている。バンドの団結は各成員間の関係の総和によって保たれている。特定の事情が発生したとき、全ての成員がそれに対して同じフィーリン グを持ち、それにしたがって行動する。しかし、大集団は基本的に上意下達式であるため、成員は見知らぬ他人からの命令を受け、また命令されたことを実行す るに当たって自分のフィーリングを抑圧しなければならない。(ここでフィーリングというのは、ユングが「思考」と対立して定義した「感情」のことだが、日本語では感情はemotionとまぎらわしいのでフィーリングという片仮名語を使っておく。)バンドの成員同士の関係はお互い同士の相互作用によって形成されるのに対して、大集団の成員同士の関係は王、神、法律、金銭等、彼らの外側の権威によって決まる。
 人類が始めからそうした大集団心性を持っていたとは考えにくいので、バンドの成員同士を結びつけるために用いられてい た本能の一部を、大集団の形成という新しい目的に流用したであろうと想像できる。両生類は魚類の鰭から脚を作り出したが、進化の初期の段階では鰭をそのま ま使って不器用に歩いたことであろう。我々の祖先も、肉体的ではないが心理的にこうした流用を行ったのである。
 大集団の形成に流用された本能のうちでも特に重要なのは狩猟の際のリーダーシップである。男たちは狩猟の際にリーダー に従い、条件によってはリーダーの役を務められるように遺伝的にプログラムされている。戦争は我々が大集団を形成した理由の有力な候補であるが、戦闘行為 は男の集団が大型哺乳類を狩るのに類似している。また、大集団社会の形成時期はそうした大型哺乳類が少なくなって人類が食物の獲得を農業に頼るようになる 時期とほぼ重なっている。かつての獲物が激減した空隙を埋めるように農産物という新しい獲物が出現したことが狩猟から戦争へという移行を容易にしただろ う。
 親子の間の絆も大集団の結束に流用された重要な本能である。子は親に従い、親はこの面倒をみる。これと同じことが大集 団のリーダーと成員の間にも仮定された。狩猟の際のリーダーシップが戦争の遂行に適していたとすれば、この疑似親子関係は大集団の日常生活の統括に役立っ ただろう。
 現代でも国家元首等に我々が親又は英雄像を重ね合わせてみるのは、こうした流用の歴史があるからだ。例えば、第二次大 戦前の日本の国民は「天皇の赤子」と呼ばれていた。また、日本の会社の従業員は会社を家族として、社長を父としてみるようにうながされる。米国大統領クリ ントン氏の女性関係が彼の政治生命を脅かすのは、それが大統領としての彼の実績と直接なんの関係もないことを考えれば不思議であるが、これは米国民が大統 領に父親像を重ねあわせていると仮定すれば納得できる。我々はこうした元首たちが個人的に我々を知らないだけでなく、多分我々のことを特に気にかけている わけではないことを忘れがちである。それは、彼らが親又は狩猟のリーダーであるという幻想を抱くことにより、大集団の中で我々が感じる不安をやわらげるこ とができるからである。
 しかし、こうした流用には難しさもあった。例えば、狩猟集団と軍隊とては規模がまったく違う。バンドの生活ではリー ダーは自らの体力、技術、知恵を日常生活で示すことにより自然に成員の尊敬を得ることができる。しかし、大集団では成員がリーダーをよく知らないので、 リーダーと成員の間の関係を形成することがむずかしかっただろう。
 この問題は、成員の心の中に非常に力強く、賢く、面倒見のいいリーダーのイメージを植えつけることによって解決され た。例えば、リーダーがいかに慈悲深いかとか、どれほど強い戦士であるかといったことを印象づける物語を成員の間に広めるのである。その物語には、リー ダーに逆らったものがどんなひどい目に遭ったかという、大集団の上意下達方式を維持するための脅しも付け足される。こうしたイメージの中のリーダーの現実 のリーダーとはかけ離れたものだっただろうが、大集団ではリーダーと成員とが日常的に接触しないので、こうしたギャップはそれほど問題にならない。大集団 をまとめていくためには、現実のリーダーよりもイメージの方が重要な役割を果たすのである。
 さて、こうしてバンド時代の本能を流用してリーダーシップを維持していく際の大きな問題は、リーダーの心の中でバンド と大集団の間の混乱が生じることである。リーダーが自分の管理している大集団を顧みずに自分の家族や恋人を先にしたためにその大集団が大きな災厄を被った 例は歴史に多くみられる。また、やたらと戦争が多いのは、狩猟という日常的な行為を下敷きにして戦争を行ったせいではないだろうか。
 こうした混乱はしかし、我々の心の中で大集団心性が次第にバンド心性から独立してくるにつれて少なくなっていった。今 日、クリントン氏がスーパーマンであると信じていなくても我々は彼を米国の大統領として認めている。また、大統領の家族が国家予算の半分を浪費するなどと いうこともない。わずか二、三百年前と比べても、リーダーがカリスマを必要とする程度はずっと弱くなっている。それは我々は個人ではなくシステムに信頼を おきはじめているからだ。昔のコインには必ず皇帝や王の顔が彫ってあり、彼らのカリスマを借りて流通していたが、現代では福沢諭吉の顔が札に刷ってあって もそれは彼のカリスマに頼って一万円札が流通しているのでないことは明らかである。貨幣という抽象観念が個々のリーダーから独立したものとして人々の心の 中で強力な権威を持っているのである。
 始めに述べたように、一般に大集団心性は歴史を通じて次第に力を強めてきているわけだが、大集団心性の確立の程度は人 間の各活動領域において異なっている。歴史の初めの頃から、戦争においては大集団心性が重要な役割を果たしていた。しかし他の活動領域では人々は主にバン ド時代のやり方を変えなかった。人々はバンド内で生産される食物を食べ、同じバンドの成員が作った道具を使い、しゃべる相手もほとんどは同じバンドの成員 であった。時代が下るにつれ、他の活動領域にも次第に大集団心性が浸透していった。人々は他のバンドとの間で食物、道具、武器等を交換するようになってき た。我々が金銭で買えるものは全て大集団心性の印が付いているといってよい。金は論理性、抽象性、普遍性という点で大集団心性の象徴であるからだ。
 今日でも大集団心性がまだそれほど確立されていない活動領域が残っている。大集団心性にしぶとく抵抗している人間の活 動領域として、子育てが挙げられる。これは、子供がバンド時代の本能を持って生まれてくるために、大集団心性になじまないからだろう。少なくとも始めの数 年は社会からある程度切り離して育て、やがて大集団の現実に少しずつ適応させていく必要があった。子育てに大集団心性が入り込む画期的な第一歩は義務教育 制度で6歳以上の子供たちが一日数時間を公務員の先生のもとで過ごすことになったことである。さらに、最近の米国や日本ではもっと小さな乳児や幼児が一日の大半を職業的な子守(デイケア等)と過ごすのが例外でなくなってきた。子育てに職業的にかかわりあう児童心理学者、カウンセラー等が増えているのは我々が子育てを大集団の仕事と見做し始めていることの表れである。
 大集団心性とバンド心性の間のバランスがくずれると我々は強い不安を感じる。ある活動領域で大集団心性が急激に強くな ると、その領域が我々の関心の的になる。これは大集団心性の急激な成長に合わせた新しいバランスが必要とされるからである。子育ての場合なら親による子供 の虐待がどこまでひどければ法的に子供を親から引き離すことができるか、という形で両心性の間の境界線が引かれる。我々は社会が自分の子供を取り上げると いう可能性に恐れを感じるとともに、一市民として、親に虐待される子供たちに同情する。そのバランス感覚を法律がうまく体現していれば我々はとりあえず安 心するわけである。
 これまでバンド心性が支配していた領域に大集団心性が入ってくると、最初はいかにも不器用な印象を与える。しかししば らく経つとそれなりの細かさが出てきて欠点が直ってくる。これは、初期の大量生産の靴がひどい代物だったのが現在ではほとんどの人々が問題なく履けるもの になっているといった現象と平行するものである。例えば、子育てに関して法律や専門家はまだまだぎこちないところがあるが、技術的知識の集積はどんどん進 んでおり、近い将来には「親がなくても子は育つ」という状態が実現されると期待して良いだろう。
 以上の拙文から、人類の歴史を「大集団心性の強大化とそれに伴うバンド心性と大集団心性のバランスの支点の移動」とい う観点から見ることのおもしろさが伝わってくれることを著者としては祈るばかりである。なお、この主論文をベースにした小論文及び社会観察文的なものを随 時掲載するつもりである。

[目次]


·  主論文に基づく諸考察

·  考察1: 上意下達システムが個人の心理に与えた影響

 大集団社会の出現は個人の心理にどのような影響を与えたであろうか。バン ド社会では、どの個人も集団の行動について意見を言うことができた。リーダーはまとめ役であり、大事な決定に関しては全員が集まって話し合い、コンセンサ スに達することができた。これは主に人数が少なく、互いに生まれたときからの経験の共有により、気心が知れていたからである。また、大集団社会の前には、 リーダーが勝手に決めたことにメンバーが従うことを当然とする気風はなかったと思われる。
 大集団社会の原理が入ってくると、個人は自分が集団の意思決定に参加できないことを思い知らされる。大集団社会での意 志の決定は上意下達であり、決断はいつも上から来て、さからえば少なくとも罰せられ、悪くすれば殺される。これがストレスにならないわけがない。それでは 個人はこうしたストレスにどう対処したであろうか。
 第一は上の者から受けた仕打ちを自分よりも下の者に繰り返すことである。帝王と臣民という関係が成立するためには、臣 民の心の中で帝王と臣民の両方のイメージがなければならない。すなわち、帝王に対して臣民として振舞うことができる者は、機会があれば帝王として振舞うこ ともできるのである。またそうした機会がなければ臣民の心の中で2つのイメージが安定しにくいという事情 がある。こうした人間の心のメカニズムの一つの帰結として、大集団社会では、階層構造が発達した。中間的なレベルにいる者達は、上に対してはひたすら恭順 の意を表し、下に対しては横暴に振舞うことで心のバランスを保つ。上下の極にいる者達は心のバランスを保ちにくいために、信仰に頼る度合いが強くなる。精 神の世界でバランスを取ろうとするからである。
 第二は、支配されていることへの怒りや悲しみを感じないように感情を抑圧することである。怒りや悲しみを抑圧すれば喜 びも同時に抑圧されてしまうから、現世が味気ないものとしてみえる。また、自分の感情を抑圧すれば他者の感情にも鈍感になる。これが後に、対象にまったく 感情移入せずに「単なる物質」として扱う姿勢を生み、自然科学的な世界観がそこから発生してきたのである。
 第三は、現世では不可能と感じられる幸福を来世に託すことである。キリスト教の天国及び仏教の浄土思想がこれに当た る。これより以前の、例えばギリシア神話や日本の神話における死者の世界には肯定的なイメージはない。現世が比較的幸福だったから、その必要がなかったの である。ところで、幸福を来世に託すという姿勢は、現世の蔑視という、中世の日本とヨーロッパを覆った基本的な感情を生んだ。また、この姿勢は現世への感 受性を鈍くして痛みを感じないようにするということ(第二)と表裏一体である。


·  考察2: 自然科学的な世界観の発生

 前項で上意下達システムが自然科学的な(あるいは客観合理主義的な)世界観を生み出すきっかけとなったと簡単に述べたが、これについてもう少し説明してみよう。
 大集団が統一の取れた動きをするためには、上意下達システムが必須である。バンド集団なら人数が少ないし日頃の交流が 密だからコンセンサスに達することもできるが、大集団ではコンセンサスは不可能である。だから、上で決められた方針に成員がしたがうという基本的な構図が どうしても必要である。その方針に不服な成員がいたからといって不服従の自由を与えるわけにはいかない。ここに厳しい上下関係を生み出す土壌がある。
 こうした上下関係では上の者は下の者の感情を無視することを学ぶ。また下の者は自分の感情を抑えて上意にしたがうこと を学ぶ。いずれもバンド時代にはなかったことである。バンド時代はすべてのものに霊を認めるアニミズムが支配していたから、人は他の人だけでなく動物や樹 木や山川の感情を重視した。そして自分の感情をかれらにぶつけることもした。上意下達システムは、こうした相手の感情に対する感受性をにぶくする方向へ人 々を導いた。そしてついには相手の感情がまったく感じられないという意識状態を生んだのだ。この意識状態では相手に対してどんなことでもできる。相手の感 情を無視できるからである。これこそ我々が自由意志と呼ぶものの核である。森羅万象の感情と意志への顧慮にしばられなくなった人間は確かに自由になり、今 までにない活力を得た。樹を伐り、山を崩し、海を埋め立て、石油を掘り、近代文明を築いたのだ。
 又、この上意というものは上の者が個人として持っている意志ではなく、より抽象的なものである。というのは、上の者に とってもこの上意は彼の内部の感情から発したものではなくさらに上から受け取ったものであるからだ。上意下達システムでは人々は内発する感情からではな く、外から与えられる上意によって動く。人々の行動を律する法律という観念は、物の動きを律する法則という観念に先んじていることを思い出して欲しい。そ してこの法律と法則というのは英語では同じ言葉(law)なのである。すなわち、人が法律にしたがって行動するという状態がまず先にあり、そこから、物も法則にしたがうのだという見方が生じたといえる。


·  考察3: 誇りを持てない現代の青少年

  現代の難しさは人々が何者かであるという満足感を持ちにくいということである。我々はバンド時代の名残で、自分の属する集団の中で、何かに秀でていたいと いう欲求を持ち、それが実現できないと惨めな気持ちになる。バンドの場合は数十人の中で、しかも性別や年齢グループが同じ仲間は数人くらいしかいないか ら、その中で一番鹿狩りがうまいとか、芋さがしがうまいとか、釣りがうまいとかいう地位を達成するのはそんなに難しくない。バンドそのものにとっても、鹿 狩り名人が10人いるよりも、鹿狩り、猪狩り、釣り、芋探し、水探し、薬草探しの名人が1人ずついる方が役に立った。こうして、バンドの中では成員は自然に異なる役割へと分化していく。そのことが各々の成員に誇りと成熟の感覚を与えるのである。ところが、大集団社会では同じことをする人間がたくさんいるから、名人の誇りを持てるのはごくわずかの人々である。
 それでも一世代前まではテレビがなかったから、自分の周囲にいる人間の間で例えば一番走るのが速いとか、身が軽いとか いったことに誇りを持てた。ところが現代ではテレビが世界一速い男たちの走りっぷりを間近に見せつけられてしまう。また、いつも同じ子どもの集団で遊んで いればそれが疑似バンド集団として、自分の取り柄を磨く場所になる。ところが現代では子供たちだけで遊ぶということがなく、いつも大人が監督しているの で、大集団原理が常に優越して、子供たちを横一線で競争させる。したがって、現代の青少年は劣等者の位置に甘んじなければならないのがほとんど必然であ る。
 幸運にも大集団の中で特別な位置を占めることができた成功者たちの発言がさらに状況を悪化させる。彼らは自分の経験か ら見て、他の者達も努力さえすれば自分のようになれるとハッパをかける。しかし、大集団の中で目立つような位置を与えられる人間の数は必然的に極めて少数 である。この事情は宝くじと変わりない。後はいくら努力したってその位置に達することはない。宝くじに当たった者が「みなさんもくじけずに宝くじを買い続 ければ私のようになれます」と言えばそのおかしさは誰にも明らかである。ところが、プロスポーツや芸能のスターが「君達も努力すれば僕のようになれる」と いうメッセージを送ることが青少年のためにいいと信じている良心的な大人はたくさんいるのである。
 現代の青少年の多くが自分でも理解しがたい怒りを抱いて生きているのは、彼らが誇りを持てるようになるための道がほとんど閉ざされているからである。「その他大勢」の中の1人として一生を生きる苦しみを忘れるために、多くの青少年は他者に対する感情を徹底的に鈍麻させ、感情生活を密室で行う。あるいは追い詰められたインディアンのように必死の、しかしむなしい反撃を試みて社会に排除される。
 一部の青少年は非常に特殊化された興味を共有することで外部から隔絶された疑似バンドを形成する。スターの親衛隊やマ ンガ、アニメ、小説作家のファンクラブ等にその例を見ることができる。アメリカの都市部では「ギャング」と呼ばれる閉鎖的な青少年のグループ同士が反目し あうケースが見られるが、これもそうした疑似バンド形成へのもがきとみてよかろう。こうした疑似バンドは青少年を大集団原理から守る防壁の役目をある程度 果たしている。ただし、こうした疑似バンドが個人の全生活を覆ってしまうと、バンド意識を守るために外の社会から意図的に孤立していき、自壊する可能性が ある。個人が少なくとも自分の一部で大集団との接続を保ちながら、別の部分で疑似バンド的帰属感を得るというのがよりバランスの取れた姿といえる。瞬間的 な満足度という点で前者のような高いピークが得られないうらみはあるが。


·  考察4: 大集団の登場と宗教---コスモロジーの変化

 大集団社会の出現は宗教にどのような影響を与えたであろうか。ここで注意 しなければならないのは、我々が一般に宗教と呼びなれているキリスト教や仏教は大集団社会が出現してから何千年も経ってから確立したものであるということ だ。大集団社会の出現まで遡ろうとするとき、宗教という言葉はやや狭すぎるかもしれない。とりあえずここではコスモロジーという言葉を使っておく。コスモ ロジーとは人間の持つ世界観である。近代では物質的な世界と精神的な世界とは別物として扱われてきたけれども、かつてはこれらが混然一体となっていたので ある。
 バンド社会のコスモロジーは我々が今日アニミズムと呼んでいるものに近かったと思われる。アニミズムではすべてのものに霊が宿っているとみなされる。動物はもちろん、植物や鉱物も意志と感情を持っていた。(このことは、我々の意識というものがそもそもは人間同士の協力のためにあったもので、それが後になって外界の客観的な把握のための利用されたのであろうと想像させる。つまり、擬人的な物の見方がまずあったのでる。)
 アニミズムの世界では、どの霊が特に高等であるということはあまりいわない。どの霊が友好的であり、強力であるかは問われるが。こうしたアニミズム的な霊の「平等」は大集団の統率にははなはだ不都合であったと考えられる。(こ こで「平等」という言葉に注意する必要がある。アニミズムでの霊の平等は例えば民主主義的な平等とは質が異なる。後者は「法の下」の平等であり、これは 「唯一の神の下で」の平等から来ている。すなわち、すでに何者かが一番上に立っているのである。アニミズムの平等はそもそもそういう垂直の方向性が欠けて いるところが異なる。)
 コスモロジーという観点から大集団社会を見た場合に最も重要なのは一神教の出現である。バンド社会では世界の頂点に立 つ神という概念はそもそも意味を持たなかったろう。一神教というのは、神が一つしかないという点でまさに大集団社会のリーダーシップの原理を正確に反映し ている。
 初期の大集団社会ではとにかくリーダーの命令が絶対だった。成員がバンド的意識で行動し始めれば集団は瓦解するしかな い。徹底的な上意下達が必要とされたのだ。しかしこの体制には大きな欠陥がある。リーダーが死んだときに大混乱が起こるし、集団全体としての知的レベルが リーダーのレベルに限定されてしまい、衆知を集めるということができない。
 そこで、リーダーシップをある程度抽象化するという動きが出てくる。例えば古代エジプトでは生身の帝王とは別に太陽神という概念があり、帝王はその化身とされていた(と思う)。帝王という具体的な個人をリーダーとして絶対化し続けながら、しかも彼が死んでも太陽神という安定したイメージは存続するというしかけである。
 この抽象化がされに進んだのがユダヤ教の場合である。ここでは神が完全に超絶して、もはや人間は預言者となることがで きるだけで、王といえども神ではなく人間であり、他の人間と同様に神の僕であった。ここでは物質世界のリーダーと精神世界のリーダーは別々になっている。 そして、ユダヤ教というのは実に徹底した議論の世界である。抽象化によって神のイメージが安定化した分だけ、成員間の議論を集団の運営に利用する道が開け たのだと考えられる。これに対応するのが古代ギリシアのソクラテスの時代である。彼は対話という形で議論を深めることをアテネの青少年に説いたのである が、これも上から言われたことをただ信じるだけの時代は終わり、個々人の議論によってアテネ全体を益することができるという彼の信念によるのだろう。
 対話とか議論とかいうのは、やってみなければ結果はわからないし、いい対話であればあるほど、終わった後自分が同じ人 間であるという保証はできなくなる点で極めてバンド的な出会いである。こういう要素を入れる余裕ができたということは大集団社会が安定度を増してきたこと を意味するし、バンド的心性を活用できるので成員にとっては大変ありがたかっただろう。一神教は個人が自らの意志や感情を抑圧してリーダーのそれに従うこ とを可能にするが、それは個人にとっては大きなストレスになっただろうから。
 大集団社会における個人のストレスはつまるところバンド的心性を持って生まれてくる個人が大集団心性を後天的に取り入 れなければならないというところから出てくる。ユダヤ教やソクラテスの時代は、議論や対話の導入でうまくバンド的心性を大集団で活用する道を開いた点が画 期的であった。
 しかし、さらに時代が下ると、人々の悩みはまた深くなってくる。主論文の始めで述べたように、大集団的原理は時代を下るにつれて強くなってくるからである。自分の本能的な性向と社会の要求の乖離、そして人生そのものに対するいやしがたい不全感が人々を不幸にしていく。この深い悩みに答えようとしたのがキリスト教と仏教である。
 キリスト教ではこの不全感を原罪として捉える。そして神への帰依によって救われると教える。ここで重要なのは、キリス ト教は人間がそのままの状態では大集団社会において幸福になることはできないということをはっきりと指摘していることである。そして、絶対的な神という、 バンド的心性には極めて理解しがたいイメージを主体的に受け入れることを要求するのである。
 仏教の修行は「人生は苦である」ことを認識することから始まる。この「苦」は病気とか貧乏とかいったことではない。釈 迦は王子として何不自由なく育ったけれども、いやそれだからこそこの「苦」に気付かざるを得なかったのだ。病気ならば「もし健康なら私は幸福だろう」、貧 乏なら「もし大金持だったらどんなに幸福だろう」という幻想からのがれがたい。全てを持っていた釈迦は人間の根本的な「苦」に真正面から取り組まざるを得 なかったのだ。釈迦は「自己が存在すると考えるのがそもそも幻想なのだ。」と教えた。自己という幻想を落としたときに広大無辺の宇宙と一つになれる。この 意味で仏教もまた個人に絶対との結び付きを要求していることになる。
 キリスト教にしろ、仏教にしろ、初期の大集団社会のようにリーダーを親や狩猟のリーダーになぞらえて成員に受け入れさせるという面は後退して、大集団原理を個人が内面化すべきことを強調している。


·  考察5: エクスタシー---大集団の積極面

   これまで大集団心性については、上意下達、感情の抑圧といったマイナスの面を主に語ってきた。大集団の統率者たちは自分達を親や狩猟のリーダーになぞら えて成員のバンド心性を満足させようとしてきた。大集団の現実はバンド心性には耐え難いものだからだ。ところが、大集団心性の中には極めてポジティブな要 素もある。それはエクスタシーとか大洋感覚とかいわれる経験である。何かに強く心を奪われることにより個人の持つバンド的な警戒心が一時的に消失して周囲 の世界に対して心が開くのがエクスタシーであるとここでは定義しておく。
 例えば現代のレイヴの参加者が感じるような、見知らぬ他人との一体感、大いなるものの一部であるという強烈な歓喜、こ れはバンド心性とはまったく異なるものである。なぜならバンド心性における共同意識は各成員同士の関係の総体であって、長い時間をかけなければ形成するこ とができない。見知らぬ他人との間に短時間でバンド的な共同意識が形成されることはない。バンド的人間は見知らぬ他人に一体感を感じたりはしない。バンド的人間が初対面の人間と機能的な関係を生み出す過程は、野性動物が人間に慣れるときのようにゆっくりと進む
 ところが、この「バンド心性と大集団心性」を読んでくださったレイヴの体験者である窪田栄一さんは あれこそバンド心性だと感じたそうである。この辺の事情を私は次のように解釈している。すなわち、バンド的警戒心は我々が遠い祖先から受け継いだもので、 我々を危険から守る役割を果たしてきたわけだが、我々が現在置かれている環境においては警報が鳴りっぱなしになり、我々の多くは殻に閉じこもったきりのカ タツムリのような精神生活をしている。したがって、少しずつ相手に心を許してバンド的な結び付きを作っていくというバンド心性の真髄を発揮することができ ない。集団エクスタシーによってバンド的警戒心が弱まり、各個人が心の殻から顔を出すと、バンド心性が健全に作動しはじめて人々のバンド的な結び付きが始 まるのだろう。
 伝統的な村の祭りや踊りはどうだろうか。これらは一緒に育った同じ村の連中との集まりだからバンド的だといえるだろう か。多分答えは否である。村といえどもバンドとして機能するには大きすぎるのだ。村人の間にバンド的な警戒心が強くなってくると村の運営に支障を来たす。 そこで村人たちを一度に一箇所に集めて太鼓や踊りでエクスタシーを醸し出して大集団的な一体感を強め、村人たちが再び協力しあえるようにするのが村祭りの 原型だと思う。
 現代では村祭りこそないけれど、エクスタシーの演出は続いている。プロ野球、プロサッカー、相撲、映画スター、ロック コンサート、大統領の醜聞、殺人事件、美談、戦争・・・こうした現象は多くの人々の関心を集めることによって、人々の間の壁を薄くする効果がある。共に注 目する何かを通じて大集団的な状況での人と人とのバンド的なつながりが再生する。ただし個々のエクスタシーは長くは続かない。しばらくは心を奪われていて もやがて珍しさが薄れれば人々の視線はまたばらばらになり、バンド的な警戒心がまた強くなってくる。そうして窒息感が再び人々を苦しめはじめる。
 現代のマスメディアの主な役割は、次から次へと小規模エクスタシーの材料を民衆に提供することにあるのだと私は見てい る。ニュースが現実世界の重要な事実を報道せずに、センセーショナルなことばかりを扱うという批判がよくあるが、マスメディアを現代のエクスタシー演出者 として理解すれば、現実に重要であろうがなかろうが人々が一瞬でも心を奪われるような材料を提供しつづけることが主要な義務であることになる。マスメディ ア以前の時代においても、噂という形で人々は小規模エクスタシーを達成していたが、現代ではずっと大きな集団が1つにまとまらなければならないので、マスメディアが登場したのだろう。
 宗教的な修行の目的はこうしたエクスタシーの経験を自分で制御できるようになることであるともいえる。言い換えれば、 バンド的警戒心を出し抜いて精神の殻を自在に出入りする術を会得することが目的である。多くの人々は自分が殻にこもっていることはわかっていても、どうす れば外に出られるのかがわからない。したがって外から自分を引き出してくれるカリスマに全面的に頼ることになる。バンド的警戒心がどう機能するのかを理解 することは大変むずかしいが、私は仏教に期待をかけている。仏教でいう「自己」はどうもバンド的警戒心が築いた外壁に囲まれた窒息空間を指しているようだ し、戒を意識することはこの外壁の穴を見つけ、また外壁がむやみに厚くならないように制御するための本道であると思えるからだ。


·  考察6: バンド的関係の形成---我が家の2匹の猫

   我が家には9年間 飼っている猫のクルミがいる。半年前に子猫のノリコを引き取ったとき、それまで「一人っ子」だったクルミは激しい拒絶反応を示した。ノリコが近づくと 「シャーッ」という威嚇音を出し、怖い物知らずのノリコがそれでも尻尾に触れたりすると前足でじゃけんに追い払った。しばらくは一日の大半をノリコの行け ない屋外で過ごし、屋内でもノリコがまだ登れない2段ベッドの上の段で寝たりした。私のひざに乗ってリラックスしているときでもノリコが来ると、ぷいっとどこかへ消えてしまった。しかし、月日が経つにつれ、クルミは徐々にノリコの存在に慣れて、ノリコが近づいても無視するようになった。半年たった今、2匹はときどきとっくみあってじゃれたり、片方が外から帰ってくるともう一方が「どうだった?」というように鼻面を近づけて軽くキスするような仲になった。
 バンド心性にもとづく関係はちょうどこの2匹の猫の場合のように進行 するのだと思う。時間をかけてお互いの存在に慣れるのだ。見知らぬ相手に対するバンド的警戒心が薄れていくには長期間を要する。この関係がいったん形成さ れると互いの存在は相補的になる。親は子供を育てることによって初めて本当に親になる。バンド的な関係で結ばれている者同士は、互いの存在があって初めて 世界が十全に感じられる。こうした相手を失うと、自分の肉をむしり取られたような気持ちになる。人間ならまず鬱状態になる。アフリカに住むある少年は、幼 児の頃からの遊び相手だったチーターが死んだ後「世界に黒い穴が空いたようだ」と形容した。バンド的関係は深い、信頼のおける関係である。


·  考察7: エクスタシーの現象面

 大集団心理の積極面としてのエクスタシーの役割についてはすでに考察5で少し論じたが、ここでは集団エクスタシーの現象について敷延してみたい。
 東京の郊外で近所中のヒキガエルが春のある夕方に突然何千匹も一箇所に集まって交尾するという話を聞いたことがある。 ふだんは自分の縄張りを守ることに汲々としている個々のヒキガエルが、このときだけは集団の狂宴に酔うのである。人間の場合にも、昔は村の若い男女が念に 一度の祭りのときに集まって恋を成就するという慣例があったという。多くの動物は個々の縄張りを守る日常フェーズと、集団的熱狂にひたるお祭りフェーズを 持っているらしい(民俗学の方では日常フェースを「ケ」、お祭りフェーズを「ハレ」とかいうらしい)。ミクロの生物学でも、自他を峻別する免疫系が体細胞を微生物や他の個体の細胞から守る一方で、生殖の際には2つの個体の遺伝子が混ぜ合わされるという極限的な親密さが発生する。
 集団エクスタシーを誘発するのは性的な欲求の高まりだけではない。恐怖の感情にもその力がある。例えば戦闘の場面で敗 色の濃い軍隊には恐怖の感情が高まり、ついに一人が逃げ出すとそれをきっかけに全員が総崩れになったりする。軍律が戦闘中の逃走に対してしばしば極刑を 持ってむくいるのは、この恐怖の伝染力を骨身にしみて認識しているからだろう。
 野球やサッカーの観客がひいきチームの得点に歓喜するときも集団エクスタシーが発生しているといえる。こんなとき、我々は隣席の見知らぬ他人と思わず肩を組んでしまい、旧知の間柄のように喜びを分かち合う。
 日本の会社社会は酒宴なしには考えられないが、これも集団エクスタシーの好例である。アルコールの力で親密な感情が高 まって我々は自意識を忘れ、本音を語る。古代ローマなどでも、宴会というと有力者たちはあびるように酒を飲んでいたらしい。酒によって思考力や体力が低下 するというマイナス面は明らかだから、社会進化論的に考えてこういう酒宴が定着した理由は、酒宴の大集団の統一への寄与が個人の心体の劣化というマイナス 点を補って余りある利点だった、と考えるのが私にはもっとも妥当に思える。
 人間は普段はてんでんばらばらのことを考えて生活している。ラジオに例えれば、それぞれの受信器が異なる周波数に同調 しているようなものだ。集団エクスタシーというのは、結局なんらかの手段で集団の成員全体を一つの周波数に同調させることだといってよい。飲酒や恋愛の場 合は生理的な条件が特定の一つの方向に大きくずれることによって同調が起こる。スポーツ、音楽、演説、演芸等を集団で観賞する場合には、全員の注意が一箇 所に集まることによって同調が起こる。いずれにしても集団エクスタシーが発生しているところでは個人のアイデンティティはかすみ、集団全体が一体の生き物 として覚醒する。


·  考察8: 大集団的関係の本質的一過性とその克服

 大集団的関係は集団エクスタシーを契機として始まる。きっかけは性の狂宴 であるかもしれないし、酒宴、戦争等なんでもよい。集団エクスタシーの高揚状態の中で自他の境界線がぼやけたとき、成員たちの間に素早い機能分化が起こ り、一体の生き物がそこに出現する。大集団的関係はバンド的関係よりもはるかに速く形成される。個人間の警戒心が集団エクスタシーによって麻痺しているからだ。
 大集団的関係はエクスタシーを契機として始まるが、エクスタシーは一般に一過性の現象であり、いつかは終息する。そのとき、大集団的関係はどうなるのだろう。3つの場合が考えられる。第1は、 関係そのものも自然消滅する場合である。酒場で意気投合した相手と一時自他の境のない桃源郷をさまよい、親友のように肝胆相照らしても、その場を去れば、 あるいは酔いがさめれば後になにも残らないということはよくある。あるいは近所の火事を消すためにそれまで口をきいたこともない隣人と一致協力してバケツ リレーをしたが、その後はまた疎遠になったということもあるだろう。第2はその関係がバンド的関係へと次 第に移行していく場合である。合同コンパで出会った異性とその後もデートを続けてついには結婚するといった例がそれである。この場合、合同コンパの集団エ クスタシーは結婚生活というバンド的関係を始めるための触媒のような働きをしたことになる。仕事で知り合った相手と後で親友になったという例もよくある。 第3として、エクスタシーは去ったが関係はいつまでも残るという場合がある。これはその関係に機能的な意 義が引き続き存在する場合である。恋愛結婚した女性が、しばらくして熱が冷めたら相手が赤の他人であることに今さらのように気づく、しかし経済的に夫に 頼っているし社会的にも離婚への風当たりは強いので、しかたなく一緒に暮らし続ける、といった例がそれに当たる。
 第3の場合は社会を考える際に特に重要なのでやや詳しく論じてみる。 ある事情でエクスタシー状態が発生し、そこで一体となった集団成員の間に機能分化が起こる。これは他人との間のバンド的警戒心がエクスタシーによって低減 し、関係の形成が加速されるためである。そして集団は一体の生き物としてエクスタシーを生じた原因である当の事情に対応していく。ところが、エクスタシー というのは根本的に一過性である。原因となった事情が続いていても、その原因への反応としてのエクスタシーの方は比較的短時間で終息してしまう。このこと は神経生理学の刺激と反応の関係を考えれば納得が行くと思う。同じ刺激が続けば、生体はそれに慣れてしまう。エクスタシーが去れば、それまで眠っていたバ ンド的警戒心が頭をもたげ、他の成員との相互作用には大きなストレスが伴ってくる。またもとのようにばらばらの生活ができれば心理的には幸福だが、集団と して一致協力して当たらなければならない状況がまだ存在する場合、集団が崩れれば全員が死ぬという最悪の事態もありうる。
 大集団的関係の存続が集団そのものの生存に必須である場合、大集団的関係がエクスタシーの終息とともに瓦解しやすいという性質をなんとか克服しなければならない。そのため手段としては、(1)新たなエクスタシーを発生させ続けること、及び(2)社会の機能的関係においてバンド的警戒心を刺激する他人との接触をできるだけ少なくしてことが有効である。
 まず(1)について。なるほど我々は一定の刺激にはすぐ慣れてしまう が、刺激の種類や部位が変わればまた反応することができる。現代社会の中では実に多くの人々がこのエクスタシーの創出という事業に携わっている。例えばプ ロ野球。ひいきチームが同じというだけで相手に対するバンド的警戒心がふっと弱まるのを経験した人は多いだろう。ひいきチームが違っていてもプロ野球への 興味という一点で赤の他人が突然親しく感じられる。ファッション界がめまぐるしく目先を変えるのも、みんなをファッションに注目させることでエクスタシー 状態を現出するための努力の一環である。マスコミの最も重要な機能は有用な情報の伝達などではなく、まさにこのエクスタシーの創出であると私は思う。全国 民が注目するようなことを報道すれば、その瞬間その出来事に注意が引きつけられる度合いに比例して一人一人の国民の間の自他の境がふっとぼやける。その瞬 間、日本という国は一体の生き物として覚醒する。アルコール等の薬物は比較的習慣性が弱いので、多くの人々は何百回、あるいは何千回もアルコール由来のエ クスタシーを通じて大集団的関係を維持していくことができる。
 (2)は現代社会では自動化という形をとっている。知らない人間と口 をきいたり、物のやり取りをするのに純粋なバンド的人間ならまず数時間は何となく近くにいて様子を見るだろう。野良猫の雄が雌に近づこうとするときのあの 果てしない忍耐を見たことのある人はこの感じがわかると思う。しかし、都会人はそんなことしてたら生きてはいけない。立ち食いそばのおばさんの周りで長時 間うろうろしていたのでは会社に間に合わない。しかし、食べ物の授受という本来親密な儀式を見知らぬ他人との間で10秒 間で済ますというのは、我々のバンド的本性にとっては大変なストレスである。自動販売機が相手ならこんなストレスを感じずに、木になっている実をもぐのと 同じ気安さで食べ物を得ることができる。自動化は人件費削減という企業論理によってのみ推進されているわけではないのだ。顧客の方も人間よりも機械を相手 にする方が楽なのであり、その原因は我々が太古から引き継いでいるバンド的警戒心なのである。現代は機械化によって人間が疎外されているという批判がある が、もともと過去において人間が社会を維持するために生物学的な限界を超えて他人との関係を持たざるを得ず、それを耐えやすいものにする慣習や儀礼を発達 させてきたが、機械の出現により、過剰な対人関係を減らして過去に戻ろうとする志向を実現する手段が与えられたとみることも可能である。


·  考察9: バンド的人格の形成と大集団社会での応用---日本の戦後社会

 バンド的な社会では、子供たちは数十人程度の、あらゆる年齢グループの人 間たちと日常的に濃い接触を保つことによって、対人的な人格を形成していく。特に自分の性質と合う年長者とは親密な関係を持って、自分の生まれつきの本性 をバンドの中で有用な形に展開することを学んでゆく。この過程で、子供はある特定の役割を学ぶとともに、他の役割を持つ成員との対応の仕方をも学んでゆ く。
 こうしてバンド的環境の中で形成される人格は、大集団社会においても有効性を発揮する。なぜなら、大集団社会といって も、個人の日常的な活動の場は例えば職場といった形のバンド的な規模の集団だからである。バンド的な人格がすでに形成されている個人は、新しい職場といっ た環境に入った場合、最初の人見知りの状態を突破してしまえば、職場の同僚達の一人一人を自分の育ったバンド的な世界の中の人物になぞらえて理解し、対応 していくことができる。
 例えば、日本の戦後の社会を築いた世代は、都市に比べてバンド的要素が強く残っていた農村育ちが多い。彼らが子供の頃 にはまだ農村人口が都市人口をはるかに上回っていたのだ。都市に出てきたとき、彼らはすでに数十人のバンド的環境で自分を活用する技術を学んできていた。 彼らにとっての課題は、赤の他人である職場の同僚を自分のバンドの成員として受け入れることであった。酒宴等の集団エクスタシーによってこの受け入れが実 現してしまえば、職場は疑似バンドとして機能する。彼らはバンドの中で多様な人間に対応して活動する術を農村での青少年期に会得しているからだ。
 ところが、戦後生まれは事情が異なってくる。戦後生まれはまず都市で育った者が多いから、だいたいは核家族で育てられ ている。いろいろな人間と慣れ親しむとか、気に入った年長者と長時間過ごすなどということはまず不可能になっている。たまたま両親のどちらかと性質が似て いて親から多くを学べる者は幸いだが、多くの子供はrole model(模範とする人間)を持たずに育ってしまう。学校の先生と意気投合する者もいるが、それもごく少数である。
 戦後生まれの青年は社会に出たときに、戦前育ちが経験しなかった新しい困難に突き当たる。酒宴で酔っても、彼らにはそ うして形成されたバンド的雰囲気の中で自分の役割をみつけてゆく基礎訓練が欠けているのだ。彼らには、バンド的状況の中で発現するべき人格が欠けている。 彼らはまずバンド的状況の中での振舞いを学んでゆく、というところから始めるしかない。それには時間がかかる。日本の高度成長期の会社が「会社は家族」と いった面を強調し、社員教育に何年もかけたのは、新入社員が職場という疑似バンドの中で効果的に行動する術を学ぶためにそれだけの時間を要したからだろ う。
 バンド的な人格を形成していない若者が疑似バンド的な日本の会社社会に入るということには大変な恐怖が伴う。それでも 多くは会社で鍛えられてバンド的な人格を形成した。一部の若者は大学で留年を繰り返すことによって会社を避けた。会社に入っても疑似バンド的な様相には近 づかず、感情的な交流なしに労働力だけを提供する処世術を学んでいく者もあった。大集団社会は基本的にはバンド的な要素なしで機能する方向へ進んでいくも のだから、会社にとってはバンド的連帯から外れた社員でも利用できる道はいろいろ開けてくる。
 しかし、個人にとっては、バンド的人格の形成の場を持たずに一生を終わるというのは損失である。いや、実際にはバンド 的な環境で人格を形成していくという欲求は大変強いので、我々は自分でも何故だか知らないうちに閉鎖的な小集団とかかわりを持ってこの欲求を満たそうとす る。例えば、学校という場は基本的に大集団的発想で運営されているのだが、学生はいろいろのグループに分かれて互いに反目したりする。これはグループ間の 抗争によってグループ内のバンド的環境を保持していくという学生の無意識の知恵なのだといえる。あるいは歌手のファンクラブ、アニメ同好会、SF同好会等にどっぷりつかる。考察5: エクスタシー---大集団の積極面で触れたレイヴの場合のように、こうした集団はバンドというには大きすぎるのだが、同じ歌手やアニメへのほれ込みという条件がバンド的警戒心をゆるめてくれる。
 21世紀も間近な日本では、バンド的人格の形成の場を求めることはさ らにむずかしくなっているようにみえる。オウム真理教にあれほど多くの青年達があれほど深く絡めとられたこと、及び神戸の震災の後で多くの青年がこれまで の日本で見られなかったような規模のボランティア活動を展開したことは、バンド的人格の形成の場への秘められた欲求が青年達の心の中でくすぶり続け、マッ チ1本で良くも悪くも大きく燃え上がりうる状況であることを我々に示してくれているようだ。


·  考察10: 「個人」という存在

 周囲の状況や人間たちと独立に一定した意図を持って存在する個人、という イメージは大集団心性の産物である。純粋なバンド人間は「個人」といえるような一定した形を持っていない。なぜなら、バンド的な出会いから生じる結果は出 会いの前に予測できるものではないからだ。「個人」は形が決まっているおかげで大集団社会の中の歯車として機能することができる。大集団的存在は、相手が 誰であっても一定した性質と働きを保つ必要がある。大集団社会は定型の部品同士のかみ合わせで機能する。バンド社会は付き合いの中で役割が分化していく。 大集団社会での成員間の相互作用の型は出会う前から決まっている。また、相手には一定の機能を有することだけが求められる。
 例えば、日本のスーパーのレジでは店員が金額を計算して客がお金を払うだけだからほとんど純粋な大集団的出会いであ る。アメリカではしばしば客の方がちょっとした挨拶をして、店員がそれに応えるということがあり、その分だけバンド的な要素が少し入っている。日本の店員 はその場の空気と化して客から無視されるのを甘受するが、アメリカ人の店員は客からある程度人間扱いされないと多少気分を害するというところがある。レス トランのチップ制度も、基本的には大集団的な関係の中にバンド的要素を混入させる。どれだけチップを置くかは客の自由だが、自由だからこそバンド的な要素 が入り込みやすい。一般に日本人はバンド的な親密さを家族等の少人数の「身内」に限り、その外ではほとんど無機的な歯車と化す。アメリカ人は家族に対して も「個人」の形を崩さないが、そのかわりあかの他人にでもある程度のバンド的な親密さを示す。
 ところで、アイデンティティという英語は自己同一性などと訳されるが、同一であること、すなわち一定の形を保つことがアイデンティティの基本である。インディヴィジュアリティ(individuality: 個人であること)というのもアメリカ人の好みの言葉だが(スタートレックを見よう!)、 これは「分けることができない」ということで、社会という機械の中の、これ以上は分解できない部品、つまりネジとか歯車であるということだ。大量生産の元 祖であるアメリカ人らしい発想だ。ばらばらの情動や欲求の寄せ集めではなく、まとまった個人として社会の中でユニークな位置を占めることが尊敬される。こ の「まとまった」を表す英語が「インテグリティ」(integrity)である。この言葉が同時に「誠実」をも意味する。二枚舌を使うやつは分裂している、というふうにとらえるのだろう。
 ところでこの「個人である」ということは、すでにパスカルの時代から恐ろしいことであるとも考えられている。パスカルは、無関心で無限に大きな宇宙の中で、他の全てから分離された宙ぶらりんの1人ぼっちであることを恐れた。彼は17世紀にすでに大集団社会の中の我々の状況を見通していて偉いものだが、20世紀も終わりかけている現在、彼のような天才でなくても、個人であることが一面で要求されつつ、他面では不可能になっていることをひしひしと感じているのではないだろうか。
 歴史的には西洋の個人の概念は神とのバンド的な出会いによって定義づけられている。個人であることの意味は神によって 与えられる。神が抽象の虚空にかき消えるとき、個人は孤立し、意味を失う。神は大集団そのものの人格化であるといってよい。大集団を動かす原理が人格化を 許さないほど抽象的になったときが個人の危機である。オウム真理教のように、あるいは統一教会のように、人間が神を僭称するとき、人々はこの擬似的な神と の疑似バンド的な出会いを通じて個人としての再生を求める。けれどこうしたカルトはオウム真理教のように大集団社会の中で孤立して自滅するか、あるいは統 一教会のように大集団的な組織に変身していくので、信者とカリスマとの蜜月は長続きしないことが多い。
 


·  考察11: 「性格」という幻影

 血液型性格学というのがあって、A型だから几帳面だとか、B型だから変人 だとかいう。いわれてみるとなるほどなあ、と思うことも多い。会社によっては採用の際のデータとして血液型を用いるところもあるという。一方、統計的な調 査を行うとこの血液型による性格の違いは有為でないという研究もあるそうだ。当たり外れはともかくとして、血液型性格学の他にも、手相、姓名判断、占星術 など、何らかの外的な印によってその人の性格や運命がわかると主張する体系は枚挙にいとまがない。
 ところで、バンド社会においてはこうした性格学的な体系は存在しない。成員同士は長年顔を付き合わせて暮らすから、相 手の性格なぞわかりたくなくてもわかってしまう。未知の他人と付き合っていかねばならない大集団社会でこそこうした性格判断法に人々は熱中する。性格判断 法によって未知の相手の性格がわかったような気になると、バンド的な警戒心がゆるんで大集団的な協力作業がやりやすくなる。すなわち、当たろうが外れよう が性格判断法は大集団社会の運営にとってプラスの要素なのである。成員同士が互いの性格を知っていると信じ込んでいれば、大集団社会的な相互作用で彼らが 感じるストレスが減り、ひいてはものごとがスムーズに進んでいく。
 大集団を運営する上で、成員の性格というのは原理的に重要ではない。大集団的な相互作用は相手を抽象的な役割として扱 うところに特徴があるのだ。だから性格判断が間違っていても大きなマイナスにはならない。同質性を基本として、レゴのブロックのように規格化された、取り 替えのきく部品として成員が機能するときに大集団の本領が発揮される。アメリカの心理学は人間をタブラ・ラサ(白紙)とみたてることを好むが、これは大集団的原理が最も強く打ち出されている国であることと無関係ではない。
 オルテガが「人間には特性などない」と喝破し、ムージルが『特性のない男』を書いた20世 紀は、人間がバンド心理の色眼鏡を外して大集団心理というものを直視するようになった時代なのだといえる。夏目漱石は「中世の物語の登場人物には性格とい うものがない」といったことをどこかに書いているが、中世の人間は日常生活ではまだバンド的状況で暮らしていたため、相手の性格なんていうことは考えなく ても身体で知っていた。文学で人間の性格が中心的なテーマになるのは19世紀である。バルザックやディケンズの登場人物はある性格の典型として行動するといったことを、最近おしくも亡くなった辻邦生が『小説への序章』の中で書いている。19世紀のヨーロッパの都会では、バンド的状況に育った田舎者が大集団的な状況に放り込まれて呻吟していた。見知らぬ他人を「この人はこういう性格の人だ」とみなすことで安心感を得ようとしていた庶民のせつない思いがこれらの巨匠にああした小説を書かせたのだろう(とかいって私はバルザックもディケンズも拾い読みしかしたことがないのだが)。自分自身についても、「俺はこういう性格なんだ」と考えることが自分が何者かであるという感じを与えてくれる。これもバンド的心理にとって重要なことである(考察3: 誇りを持てない現代の青少年を参照)
 考察9: バンド的人格の形成と大集団社会での応用で 議論したように、戦後生まれの人間はしばしばバンド的人格を形成しないままに成人する。彼らはバンド的人間関係のための性格をはっきりと持っていないため に、職場におけるバンド的要素から疎外される。このことは心理的な欠損感になる。しかし、彼らは今日の大集団社会で立派に機能する成員である。すなわち、 彼らは社会的によく適応しているけれども、心理的に不幸な人間という今日急成長のカテゴリーに属する。バンド社会では社会的な成功と心理的な幸福とが一致 するのだが、大集団社会は歴史が短いために社会的な適応と心理的な幸福の間に大きなギャップがある。「性格」という幻想はこのギャップを埋めるための一策 なのだ。


·  考察12: バンド集団の効率と大集団の効率

 個人の働く効率という点では、役人が最低、大会社がその次、そして中小企 業、最高は自営業だろう。庶民の官僚批判の多くはお役所の非能率性をやり玉に上げている。「寄らば大樹のかげ」というその大樹を持たない我々は、たいして 働いてもいないのに大きな組織に属しているというだけで甘い汁を吸う--と我々には見える--役 人や大会社の社員の悪口を言って溜飲を下げる。ところが、自営業で能率を上げている自由人達が何か大きな事業を行うために、たくさん集まったとすると、ど うなるか。結果は役所や会社よりずっとひどい混乱となるだろう。自営業者は多人数でまとまって行動するのに慣れていないからだ。
 自然に形成される集団はバンド的原理でまとまるため、数十人くらいまでは効率的だが、数百人という規模になるとそもそも1つの集団としてまとまることができなくなる。大集団原理は人間にとって不自然なので個人的には効率が上がらないが、大きな集団としてまとまれば巨大な力になる。たとえば、11人が1の力を出すとして、100人規模のバンド集団は100の力を出せる。大集団では11人が0.1の力しか出さないから100人でも10の力しかなくて、バンド集団よりずっと見劣りする。ところが、これが1万人規模になると、バンド集団はそもそもそんなに大人数ではまとまらないから、総合力が100を大きく越えることはない。ところが大集団は規律によって各人の力の位相がそろっているから、1万人なら1000の力を出すことができる。レーザーのコヒーレントな光が、エネルギー量は同じでも白熱電球の光よりもずっと遠くまで達するように、大集団原理でまとまった集団はバンド集団にはまねのできない事業を達成することができる。


·  考察13: ヨーロッパは何故世界を制覇できたか?---大集団原理の強さ

 ヨーロッパ人がアメリカ、アフリカ、アジア大陸を次々と植民地化していっ たとき、原住民が効果的に抵抗できなかったのは、ヨーロッパ人に比べて大集団原理の統合力が弱かったことが原因だと私は見ている。集団の規模だけでは統合 力の尺度にはならない。巨大なインカ帝国が僅か数百人のスペイン人にしてやられたのは、鉄砲などの武器のせいではなく、帝国内の部族間の対立を利用された からだ。バンド心性が強いと大集団としてなんとかまとまっていても、比較的小さな擾乱によって仲間割れが発生してしまう。インカの例でいえば、結局のとこ ろ個々の部族の成員はインカの成員という気持ちよりも自分の部族の成員という意識が強いから、わりと簡単にスペイン人侵略者の口車に乗って他の部族と対立 してしまうのだ。アメリカインディアンがリトルビッグホーンの戦いで第7騎兵隊を全滅させたときは、複数の部族が連合軍を形成していたが、戦いが終わると彼らはまたばらばらに散っていった(とトマス・バージャーの『小さな巨人』に書いてあった)。インディアンはバンド心性が強く残っているので、いくら戦略的にまとまっていた方が有利とわかっていても、心理的抵抗が大きすぎて長続きしないのだ。
 日本の幕末でも、フランスが幕府を支持し、イギリスが倒幕派を支持するという時期があったが、結局15代将軍徳川慶喜は日本国内での仲間割れを避けて江戸を無血で倒幕派にあけわたした。これはこの将軍が英明であったというだけではなく、集団としての日本人が白人以外では最も深く大集団原理を体得していたためだと私は見ている。


·  考察14: 奇跡---日常意識では理解できない大集団的現象

 奇跡、という言葉にふさわしいのは、大集団がまとまりを得て突然機能するときの圧倒的な勢いである。人々の心のベクトルがそろったときに奇跡は起きる。戦場で対峙する両軍勢。どちらも神に祈ることで集団エクスタシーを発生させようとする(考察5: エクスタシー---大集団の積極面を参照)。片方が先に集団エクスタシーを達成すると、個々の兵士の意識が失われて全軍が1つの意志を持って動く。兵士たちが我に返ったとき、敵の多くは死体となって足元に横たわっている。神が奇跡を起こしたのだ。大集団がまとまると、古代人の日常意識--すなわちバンド意識--では想像もつかないような大事業が達成される。彼らには自分達がそれをやったという自覚がないので、神が奇跡を起こしたと考えるしかないのだ。
 このように、初期の頃の大集団的統一が実現するためには、成員の日常意識が完全にノックアウトされる必要があった。歴 史が下るにつれて、人々は大集団原理で行動しているときにも日常の意識をある程度保つようになった。それでも大集団原理で行動しているときの我々は半分夢 を見ているような状態であり、後で集団エクスタシーがさめたとき、自分達がそれをしたということは憶えているが、そのときどういう心理状態だったかははっ きり思い出せない。戦中派の戦争経験を聞いたときに戦後派がもどかしい思いをするのは、戦争中の集団エクスタシーが去った今、戦中派自身も当時の自分の気 持ちを忘れているからだ。彼らが何でも軍国政府のせいにする態度は戦後派の我々から見てひどく無責任に映るが、当時の気持ちを憶えていない彼らにしてみれ ば、誰かに操られていた、だまされていた、と考えるのがもっとも合理的なのだ。
 戦敗国の日本ではすべてが政府のせいにされるが、戦勝国のアメリカでは、兵隊だった個々人が自分の当時の行動を誇りに 思う。この場合は集団エクスタシーの影響下でとった行動を自分の手柄にするから、自分の能力を過大評価する傾向が生まれる。日本人の場合も、アメリカ人の 場合も、集団エクスタシーという魔物についての明確な認識がないために当時の自分の行動について等身大のイメージを持つことができなくなっている。  


·  考察15: ピラミッドの意味---集団エクスタシーの焦点

 宗教における崇拝の対象は、集団の全成員の注意がその対象に向くことに よって集団エクスタシーを生じるという点に意味がある。巨岩、巨木、大きな山、といった対象はその大きさのために注意を引きつけやすい。それだけ崇拝の対 象としてふさわしいわけだ。集団の規模が大きくなるにつれて、もっと大きなもの、あるいは遠くからでも見えるものが対象として選ばれるようになる。たとえ ば太陽のように。
 ピラミッドのような大構築物も、集団の成員の注意を集める効果を考えれば、あながちエネルギーの浪費ではなかったの だ。世界中のいろいろな民族が、ある時期巨大な構築物の建設に夢中になったということは、大集団社会の発達の途中で、巨大な人工物を神の具体的な象徴にす ることで集団のまとまりを得る時期があったと考えると納得できる。
 現代の我々は、インディアンが自分の部族のトーテムを熊だと考えたりするのを迷信的だと笑うが、これもまた、成員の全てが自分を熊にアイデンティファイすることで集団エクスタシーを発生したのだと考えると、迷信どころか実際的に大きな効果があったことになる。
 また、我々は昔の人々の技術的発達の遅さをなんとなく軽蔑の目で見る癖があるけれども、過去においては、集団をいかに まとめて維持していくかということが最大の知的課題であったのだ。産業革命以来の技術の発達は、集団結束のノウハウがようやく固まり、人間が物質的な技術 の方に目を向ける余裕を得たことが大きな要因である。というより、昔も物質的な技術はあったけれども、それが人間生活を便利にするというよりは、大集団の フォーカスになりうる大構築物の建造に使われることが多かったのだ。


·  考察16: 貨幣---集団エクスタシーの究極の焦点

 「考察15: ピラミッドの意味---集団エクスタシーの焦点」では歴史的に集団エクスタシーの焦点になったものについて少し書いたが、それでは現代の集団エクスタシーの焦点とは何か、といえば、それは貨幣である。これほど万人を興奮させるものが他にあるだろうか? そして、これほど抽象的な崇拝の対象も珍しい。1万円札の機能的な価値はほとんどゼロに等しい。これが1枚あれば、ごちそうが食べられるというのは、日本人全体が貨幣という抽象的な約束事を実に誠実に守るからだ。
 貨幣ほど大集団的なものもない。貨幣さえ出されれば、我々はずいぶん重要な物でもあっさり見知らぬ他人に相手に渡して しまう。コンピュータを買うのに、店員と知り合いである必要がない、というのは実にすごいことだ。店員はこの価値の高いおもちゃをあっさりあなたにわた し、あなたは1と月分の労働の結晶である数十枚の1万円札を店員に渡す。ここでは実に当たり前のように深い信頼関係が前提とされている。店員が見知らぬあなたにコンピュータをわたすのは、あなたを信頼しているからではなく、貨幣の価値を信頼しているからだ。
 かつて宗教が持っていた、大集団をまとめる力は、今は貨幣経済がほぼ完全に掌握している。現代の宗教は、貨幣経済の網 の目にかからなかった要素、たとえば外に広がる可能性のない個人的な思いや悩みを拾い上げることでようやく息をついている。宗教は人々の心の中心を追い出 され、貨幣経済の中の寄生虫として存在を許されているだけだ。
 結局のところ、どんな宗教も、世界全体をまとめるほどの求心力と包容力を持てなかった。宗教と宗教、国と国がいがみ合う中で、貨幣経済は宗教の壁を越え、国境を越えて、世界中の人間同士を結びつけている。


·  考察17: 大集団社会におけるバンド心性の魅力と危険

 大集団社会における我々の生活は、ともすると無味乾燥になりやすい。我々 の多くは長時間労働するが、その内容はそれ自体喜びを感じさせてくれるようなものではないことが多い。新しいファッション、新型のコンピュータ、新しい ウェブサイト、プロ野球のペナントレースの終盤、新しい歌手、といった、集団エクスタシーの対象が休みなく生み出されていても、どうしようもない精神的な 空虚さが我々の心を満たすことがある。そもそも、自分に心なんてものがあるのかどうかさえ確かでなくなってくる。
 大集団心性の消極的な状態というのは、つまりは閉じ込められたバンド心性である。集団エクスタシーに支配されていない とき、我々はバンド心性でものを見る。大集団社会の中では、それは未知の異邦人に囲まれた極めて居心地の悪い状態だ。虚勢を張るにせよ、死んだふりをする にせよ、我々は外に対して自らを閉ざしてこの状態をやり過ごそうとする。
 こんなとき、少しでもポジティブなバンド心性を発揮できる条件が与えられると、我々は闇の中に光を見たような気持ちになる。社会の中に疑似バンドが発生する所以である(疑似バンドについては考察3: 誇りを持てない現代の青少年にも記述あり)。自由であるとともに、仲間との結び付きが確信できる、という経験には抵抗しがたい魅力がある。
 また、工業化社会に住む我々は、いわゆる部族社会に住む人々の人情や自然と一体になった生き方に感動する。そこにはバ ンド心性が息づいているからだ。バンド心性の発露は、それが何か本質的に正しいものであるという感覚を我々に与える。我々の道徳観の基底は何万年も続いた バンド社会から来ているからだ。
 しかし、ここには1つの落とし穴がある。仲間との心の交流の素晴らしさを味わうにつれて、外部の人間の冷たさや生気のなさに対する疎遠感がつのってくる。また、バンド内部の開放的な状態を維持するためには、外部の擾乱から内部を守る必要がある。バンド心性というのは本来せいぜい100人程度の規模の集団でしか有効に機能しないし、他のバンドとの関係の仕方は縄張り保護の排他的なものにとどまる。しかも、我々の心には大集団心性もかなり深く浸透しているから、隔離された密室の中で絶対的な権力を奮う者がでてきたりする。
 一方、大集団社会の側から見た場合にも疑似バンドのこうした排他性は好ましくないものに映る。たとえば、大会社で社員 を定期的に違う部署や地域に配置換えするのは、強固なバンド的結合ができるのを防ぐためだ。働いている部署がある程度のバンド的雰囲気を持っていること は、社員の精神衛生上好ましいことだが、バンドとしての結束が強くなると、他の部署との協調ができにくくなる。バンドを支配の単位とした大集団社会が封建 社会だと私は思っているが、結局のところ封建社会は、個人を支配の単位とした近代社会に効率という点でかなわないのだ。
 現代工業化社会に住む我々は、バンド的な条件がたとえ与えられてもその中に安住することができず、かといって大集団的状況に完全に適応しているわけでもない、はなはだ居心地の悪い状態を強いられている。


·  考察18: 大集団人間の非暴力性

 大集団化の進んだ社会は組織力が強いから、戦争ということになると勝つ。また、そのため結果的に大変残酷な行為に犯人になってしまう。しかし、その成員個人を取ってみれば、バンド的傾向がより強く残る部族社会の成員に比べて非暴力的だ。
 部族社会の人間は自分の部族以外の人間に対して底無しに残酷になれる面を持っている。部族社会自体、バンドより大集団性が強く、そのためのストレスも大きい。憤まんのやり場は部族の外の、弱い立場にある人間ということになる。
 大集団社会に生きる人間には、部族社会には見られないある種の優しさがある。相手がまったく知らぬ他人であっても、傷 つけまいとする気持ちがある。大集団が機能するためにはそれが必要だからだ。知らない人間だからといってむやみに傷つけるようなことをすれば、集団が弱く なってしまう。大集団は見知らぬ人々との協力で成り立っているからだ。
 たとえば、ものの売買のときに、言い値に応じて払うと大損する、というような状況では誰でも時間と労力をかけて交渉し なくてはならない。それは売り手と買い手を同じ集団内の成員としてみた場合、エネルギーの無駄遣いである。ものの流通の速度を遅くしてしまうことにもな る。売り手が始めから妥当と思う値段をつけ、買い手がぱっと買う方が集団としては強力になる。
 バンド社会の人間はそもそもバンドの外、という観念がない。ただ、見知らぬ者に対する警戒心があるから、2つのバンドがテリトリーを接していても、自分のバンド以外のメンバーが見えればお互いに距離を保つだけだ。バンド人間は、よほど追い詰められない限り原則として見知らぬ者を攻撃したりしない。
 結果として、大集団人間とバンド人間は、比較的非暴力的であるという点で好戦的な部族人間と一線を画することになる。


·  考察19: 縄張りから分化へ

 別々の縄張りを持って独居している動物の場合、自分の縄張りの中心から離れるほど気弱になる。中心の近くではとても強気になって大きな相手とでも戦う。この本能によって生息地が均一にカバーされ、効率よく利用されることになる。
 こうした動物が群れを作るとどうなるか。群れには集団防御という利点があるから、捕食者の脅威が増すと独居性の動物が 群居生活を選ばざるを得ない場合もある。この場合、独居時代の縄張り本能はどうなるのか。実はこれが鶏のつっつき序列とか、日本猿のマウンティング序列と かにつながるのだと思う。
 ボスは自分の縄張りにいるのと心理的にあまり変わらない。他の個体はボスに服従の姿勢を示すことで、彼の縄張りの「間借り人」の立場を認める。2匹 の個体が出会ったときは序列の高い方が形式的に縄張りの住人の役を演じて序列の低い個体をつっつくか、マウンティングによって優位を確認する。序列の低い 個体はいつも他の個体との鉢合わせを恐れながら暮らすことになって精神衛生上好ましくないが、群れに属することの利益が優先する場合はそれもやむを得な い。
 こうした序列は結局のところ独居縄張り時代の遺物であり、群れとしての外の世界に対する適応性に貢献しているわけではない。群居生活が長くなると、やがて次のフェーズが出てくる場合がある。それは役割分担である。
 群れの生活にはいろいろな局面がある。ある成員が腕力に勝っていれば、他の群や外敵と戦うときには彼が前に出るのが群 として効率がいい。又、中には特に聴力がいいものもいるだろう。すると、彼の発する警告にしたがえば群れとしてより早く外敵を避けることができる。風に 乗ってくるおいしいベリーの匂いを誰よりも敏感にキャッチするものもいるかもしれない。彼が何かかぎあてたら、群れは彼にしたがっていけば饗宴にありつけ る。このように、状況によってボス的役割を果たす成員が異なるというシステムにより、各成員の縄張り的な欲求を満たしつつ、群れを繁栄させることができ る。
 ほ乳動物の場合、群れの中の個体間の役割分担(分化)は比較的限られていることが多いようだ。ホモサピエンスは、一部の霊長類が例外的に高度な役割分担に走った結果生まれたのではないかと私は思っている。


·  考察20: 統一には独裁性が必要

 異なる文化をもつ集団が集まった共同体は効率が悪い。これは規格化が行なわれていないからである。まず絶対王政のような形で規格化が行なわれてから民主化が進む。ルイ14世はフランス語を武断的に規格化した。方言に固執する地方の人間は虐殺された。しかしこれにより、民衆が同じ価値の元に集まれる土台ができたともいえる。イタリア語の統一もムッソリーニという独裁者の下に初めて可能になった。
 東ヨーロッパのハプスブルグ家はハンガリー等のいくつかの国をゆるくまとめた共同体だったが、近代化に追いつけず解体した。イスラームは広大な帝国を作ったが、他宗教への寛容さに見られるように、下部レベルでの規格化が進まず、やはり近代化に遅れをとった。
 イラクのサダムフセインも、アフガニスタンのタリバンも、部族連合のような状態では対外的にまとまれないから独裁の形を取っていく。

 

·  考察2: 大集団の統合・運営の道具としての「恐怖」---フセインとタリバンの国内支配、アメリカの世界支配

 部族社会は部族と部族の境界が接していて、軋轢が起こりやすい。部族間の 抗争は武器の発達とともに大きな損害を出すようになり、そのことが部族間の平和共存を可能にする統治構造へのニーズを生む。まずは部族の長同士が話し合う という形がある(たとえばインドの釈迦時代の部族連合、中世東ヨーロッパの選挙候)。部族同士の交流が進むと(分化の原理により)一つの部族が強力にな り、部族連合全体を支配するようになる。これは力ずくの支配であり、部族同士の本能的ともいえる復讐心や嫉妬心が顕現するのを抑えるために、恐怖で人々を おじけさせる。恐怖でおじけていれば他人と一緒でもけんかしなくなる。被支配部族は自らの文化や道徳を支配部族のそれに合わせることを強要される。しかし その結果として今までより広範な地域で分業が可能となり、人々の平均的な生活力が増大する。そのあとは部族間の社会的規範の均質化が進み、恐怖政治でなく ても統治が可能になる。

 21世紀に入って急激に世界に影を落とし始めたテロリズムとその対策とい うことを考える場合、この恐怖による支配ということがキーになる。アフガニスタンを統治していたタリバン政府やイラクのフセイン体制は恐怖で人民を支配し たという批判がある。だが部族的な道徳で生きている人々を国家という大きな単位でまとめるには、恐怖による支配以外によい方法がない。タリバンはイスラム 教という公分母を使って多数のさまざまな部族を統一した。その政策が寛容すぎれば、各部族が勝手なことを始めて、部族間のきりのない抗争が続くことにな る。工業化社会の国家にするわれわれは、この部族抗争というものが何千年にもわたって人類の創造性を無残に消耗させてきたことを忘れている。また、部族社 会に生きる人々は、工業化社会の人間が部族的な制約を超越していることを理解しない。

 テロリズムそのものは部族的な復讐心に突き動かされた行動である。パレス チナ人とイスラエル政府の間の果てしのないテロリズムは両者とも「復讐」という部族社会では正当で道徳的な行動から抜け出せないことからきている。アメリ カのアフガニスタン爆撃もそういう意味ではアメリカ人に残存する部族的な正義の感覚の発現である。

 アメリカは今最強の部族として世界をアメリカ色に染めようと動き始めている。もちろんこの動きは20世紀後半を通じてずっと存在してきたのだが、いまや各国の主権を剥奪するという段階にまで流れが強くなってきている。アメリカ自体は9/11テロ以後部族エゴをむきだしにしてテロリストに関係がありそうだというだけでアフガニスタンを破壊したが、その一方でこの動きによって世界の統一が進むことにもなる。


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