危機進化論

 

1) 生態系の循環危機から新種による救済へ

2) 嫌気性生物と酸素、そして好気性生物の登場

3) 石炭紀には木を分解する生物がなかった。

4) 地上に蓄積する死骸と陸性生物の登場

5) 石油の蓄積を止めた生物の存在

6) 新種は旧種を認知するがその逆はない。

7) 複雑な生態系が複雑な新種を生む。

8) 種は客種との競争によって滅びる。

9) 新種は飛び地ではなくゴミタメで生まれる。

10)まず形態が、そして後に遺伝子が変化する。

11)危機により新種が登場し、自然淘汰によりrefineされる。

12)危機進化論的「種」には順番が付けられる。

13)新種と旧種の違いは基本的なものから周辺的なものに移っていく。

14)生態系の成熟と人間の複雑さ。

15)新種は旧種たちに出会うときに複雑化する。

16)ゴミで生きるのはより単純な生物では?

17)宿主は原始的環境を寄生種に提供している。

18)旧種の不変性

19)プロスポーツは社会にたまる毒を食う。

20)欠乏の埋め合わせか過剰の処理か

21)人類は自然淘汰の段階にある。

22)野外観察者と生化学者の対立

23)恐竜の絶滅は、その中の一種の過剰繁栄のためか?

24)種はなぜ連続的でないのか? 

25)形質は適応の結果ではなく出発点?

26)新種は蓄積を通して旧種達を認識する。

27)旧種は旧種間の競争によって、新種に対応した変化をする。

28)一つの新種は一箇所からしか生じないか?

29)新種の増加は触媒反応に似ている。

30)生態学は生物の空間的関係を、進化学は時間的関係を扱う。

31)「過剰・蕩尽」理論は新種出現の契機を説明できる。

32)恐竜は蓄積を消費し尽くして滅びたのか?

33)恒温性の効果は陸でも海でも通用する。

34)危機進化論はナチュラリストの側に立つ。

35)20世紀人は新種の「ゴミタメの孤独」を経験している?

36)環境を定数と見る考え方の長短。

37)優秀なものが生き残る、という有害な観念。

38)性選択説はご都合主義的である。

39)目的の科学を引き受ける進化論

40)新種は母種からの隔離で生じる(異所説)

41)放射能を吸収する新種に旧種が保護される。

42)寄生している旧種とゴミを食う新種は区別できるか?

43)人間は如何にして複雑さを保つか?

44)個体の自由か、決定論か? 進化論の倫理性

45)進化論は個人の世界観の表現

46)危機進化論では、未来を予想する生物はいない。

47)廃棄物の蓄積によって主役が交代

48)生物は未来を予想することはない。

49)DNAのない下部構造で放射能に耐える植物。

50)複数の場所でゴミを漁るための大型化。

51)進化論はDNAにこだわらず、人間の存在も説明すべき。

52)見慣れたものの中に未知の怪物が現われている。

53)昔風のやり方が安全とはかぎらない。

54)突然死体が耐えがたいものとなったことについて。

55)繁栄の後のよりつつましやかな子孫たち。

56)初期相、激増相、淘汰相、そして安定相

57)恒温性は激増相向き。

58)鳥類が恐竜を滅ぼした?

59)他の動物は能力があっても殺戮をしないのは何故?

60)人間がみるとき動植物はすでにその役を終えている。

61)文化は激増相の共通の特長か?

62)進化論は主体を含む系についての法則。

63)危機進化論でなく補償進化論か?

64)従属栄養生物の方が先(前川)

65)Burgess Shale の大発生とその後のくじ引き

66)大隕石による恐竜絶滅説

67)恐竜絶滅の原因は多分一過性

68)種が別れるのは激増期

69)優生学よりも遺伝的な拡散が重要

70)身障者のネアンデルタール人は何故長生きしたか

71)一神教は安定期、多神教は激増期?

72)危機進化サイクルの各段階

73)新種の取柄は遺伝的とは限らない

74)普遍的無意識から歴史の激変への影響 see 87)

75)病気による進化

76)人間だけが増えるのか? see 43)

77)人間は過去の大蓄積に依存している see 14)

77.1)生態系の複雑さとバイオマスの蓄積が人間のエネルギー源

78)新種における従来の能力の転用 see 84), 88)

79)火の利用は食物の「横取り」の始まり

80)アイオワ州の肥沃な土は蓄積

81)滅ぼされたインディアンは蓄積か?

82)イラクの敗北は旧種の精神の滅亡か?

83)「私」は羊の形をした雲のようなもの? see 48), 44), 53)

84)急激な進歩は進化というより旧能力の新分野への応用 see 78), 88)

85)バラエティが減るのは生態系が不健全ということ?

86)恐竜というよりも大型の動物をひとまとめにするべきか

87)危機とは二つの生の体系のはざま(オルテガ) see 74)

88)自然から他の人間へと対象を変える転用 see 78), 84)

 

 

1)生態系の循環危機から新種による救済へ

 

生態系は一見動的平衡を保っているかに見える。しかし、実際には何らかの要素が循環から抜け落ちて蓄積していく。それはある生物の代謝産物−−−排せつ物、死骸を含めて−−−であることが多い。この蓄積は永い時間のうちには生態系の恒常性を犯し始める。毒物の蓄積、あるいは必要な化学物質の不足という形で生態系は危機を迎える。この危機は同時に新しい成員を生態系に迎える機会でもある。従来の成員が処理できなかった蓄積を処理し、その過程でエネルギー等の利益を引き出しうる生物が歓迎される。蓄積が循環の中に戻ることにより生態系の危機も乗り越えられる。11/19/86(47に似た話)

 

2)嫌気性生物と酸素、そして好気性生物の登場

 

地球上で最初の生物は嫌気性であった。彼らの代謝産物である酸素は彼らにとって毒である。そして彼らは酸素を処理する機構を持たなかった。酸素の蓄積が進んで地上の酸素濃度が増大するにつれ、彼らは地上に住めなくなり、地下深くへと退却していった。地上には酸素と、そして彼らの死骸という蓄積が大量に残った。好気性生物はこの恵まれた条件−−−酸素、食物があり、競争の必要がない−−−のもとで登場してきたのである。酸素への耐性、という能力さえあれば、生物としての完成度がいかに低くても立派にやっていけたのである。

 

ノート: 嫌気性生物しか地上にいない時代には生物は海にしか住んでいなかったのではないか?

 

関連事項: 魚の出すアンモニアを処理するバクテリア。(「大博物学時代」)

 

 

3)石炭紀には木を分解する生物がなかった。

 

今日掘られている石炭は主に石炭紀の大森林の化石である。ところで、現代の森林では木の死骸は種々の生物により分解されるため、蓄積しない。大量の石炭の存在は、石炭紀にはまだ木の死骸を有効に分解する生物系が登場していなかったのではないかと想像させる。当時は、サンゴが次々と堆積していくように、枯れ木で埋め尽くされた森林の上に重ねて木が生えていったのであろう。こうした木の死骸を処理しうる生物の登場により、際限のない蓄積は止まった。それはカミキリムシ等の昆虫であったかも知れない。さて、木を処理できる生物が現われたと言っても、すでに地中深く埋もれた木までは彼らの手は届かず、石炭層が残ることとなった。

 

4)地上に蓄積する死骸と陸性生物の登場 see 86)

 

初め生物は海にしか住んでいなかった。地上には動植物はいなかった。この間に岸に打ち上げられた海草、干し上がった海に残った生物の死骸などがしだいに蓄積していった。この蓄積が最初の陸性生物登場のきっかけとなった。

 

ノート: 最初の陸性生物は食物の山で暮らしていたのだから当然従属栄養生物だっただろう。しかしそうなると地上性の光合成植物はいつ、どうして登場したのか?

 

5)石油の蓄積を止めた生物の存在

 

石油は太古の海底に降り積もった生物の死骸に源を発している。死骸の蓄積が際限もなく続いたとすれば、今ごろすべての生物は石油と化していることであろう。海底に溜まった有機物を食物とし、それを海面近くまで返すような生物が地球史の一時期に登場しただろう。それはかなり繁栄している生物であるはずだ。

 

6)新種は旧種を認知するがその逆はない。

 

生物種はそれぞれ独特の世界観を持っている。生態系がそれ自体で処理できない廃物の蓄積のために危機に陥り、新しい生物の登場によってそれが解決されたとする。この時、以前からその生態系にいる種は新しい種を認知しない。彼らの世界観の中には新しい種は入ってこない。つまり彼らは新しい種を今までに存在する種と同一視するのである。しかし新しい種は古い種すべてを別々のものとして認知する。(26参照)

 

 

7)複雑な生態系が複雑な新種を生む。

 

生物にとって、単純な環境の中では複雑な機構を持つことは重荷である。また、一度生態系の中で地位を確立した生物はその後本質的な変化をしない。この二つのことは地球の歴史の中でより複雑な生物が比較的後期に出てくることを説明する。すなわち、彼らは地球の生態系そのものが複雑になっていて、それに適応するためにその生物自身が複雑であることが意味を持つ段階で生まれてきたのである。(7、43参照)

 

参考:従来の進化論はあたかも同じ環境にたいしてより適応した生物がより高等な生物であるかのように受け取れる。単純な有機物しかない世界に人間と大腸菌を置きざりにしたらどちらが生き残るだろうか?

 

8)種は客種との競争によって滅びる。

 

ある生態系の中の種が滅びる原因となるのはその生態系固有の新種あるいは旧種との競合ではない。別の生態系から持ち込まれた客種との競争である。

 

例: アメリカインディアン

   オーストラリアのフクロオオカミ

 

 

9)新種は飛び地ではなくゴミタメで生まれる。

 

新しい種は大生態系から隔離された小さな系で生まれる、とする説がある。この説の背景には遺伝子プールが大きいと大きな遺伝的変化を受け付けなくなるという考え方がある。危機進化論でも、新しい種は生態系の他の生物から隔離した環境で生じると考えるが、そこは生態系の毒廃物によってできた不可触領域であり、元の生態系と密接に関係している。(従来の説では隔離の原因は地形変化等の偶然的な物が考えられている。)(35参照)

 

10)まず形態が、そして後に遺伝子が変化する。

 

生態系に固有の新種は生態学的な位置が遺伝的な親の種と大きく異なる。しかし、それは遺伝的にも大きく異なるというわけではない。なぜなら、たった一つの遺伝的な違いでも形態や機能に大きな変化を生みだしうるからである。いったん位置が確立されればその新種の固体同士の自然淘汰により、遺伝的な変化が促進され、最終的には親の種との間に大きな遺伝的な違いができる。

 

11)危機により新種が登場し、自然淘汰によりrefineされる。

 

危機進化論はネオ・ダーウィニズムと相補的である。前者は新種の登場を説明する際により助けになるし、後者は馬の大型化等の連続的な変化を説明する有効な方法である。危機進化が起こる際の一見不連続的な変化は新種に対する淘汰圧が一次的に著しく下がることと、形態の大変化が意外に小さな遺伝的変化で起こることを考慮すれば、ネオ・ダーウィニズムの枠内にはいる。

 

12)危機進化論的「種」には順番が付けられる。

 

危機進化論によれば、一つの生態系の中で、もっとも古い種から最新の種まで順番を付けることができる。ただし、新種が出てくるとき、環境による棲み分けのためにいくつかの種に分れることはある。これらは危機進化論の言い方では同種だが分類学上の同科と言うべきだろう。

 

参考:カゲロウの棲み分け。「主体性の進化論」今西錦司。

互いに位置を取り替えても十分やっていけそうな二つの種がなぜ混じってしまわないのかは面白い問題である。

 

13)新種と旧種の違いは基本的なものから周辺的なものに移っていく。

 

生態系固有の新種と旧存種との違いは、地球の歴史の始めの方では代謝系などの基本的なものである。しだいにその違いの焦点はより微妙なもの、すなわち基本的な要素の組み合わせ方に移ってくる。例えばネズミの細胞と人間の細胞には基本的な違いはない。内臓の働き、あるいは基本的な運動能力に至るまで、決定的な違いはない。ただ運動の統合という点で違いがあるのである。

 

14)生態系の成熟と人間の複雑さ。

 

人間もまた生態系固有の新種である。人間が複雑なのは人間を産み出すまでに至った生態系の複雑さの反映である。永い間生態系の循環から外れていた化石燃料を燃して、再び循環に戻しているのも、生態系固有の新種の振る舞いとして理解できる。しかし、人間のために多くの種が絶滅しているのは説明しにくい。(7、43参照)

 

参考:蓄積の増加により生態系は分断されてくる。隔離された生態系の中で種はとなりの生態系の同系種との違いを増幅してくる。新種が蓄積を食い尽くすとそれらの生態系は再び出会い、各生態系の種は客種との生存競争にさらされる。

 

15)新種は旧種たちに出会うときに複雑化する。

 

新種が生態系の毒廃物を処理するために生まれてくるという考え方と、新種が旧種すべてを識別するだけの複雑さを持つ、という考え方は次のように結びつく。新種は食物の海(旧種にとって接近不能な)で生まれるのだからはじめは単純な生活である。しかし固体数が増え、食物の海が消費し尽くされると新種は食物の生産者である旧種の生態系にごく近いところで暮らす必要があり、そのため旧種達を認識するのである。12/3/86

26参照)

 

16)ゴミで生きるのはより単純な生物では?

 

生態系の危機を生む毒廃物の生産者が一つの種でしかないとすると、それに対応する新種もその種としか関係ない、生態系の他の種と無縁な物になるだろう。このことは新種が旧種すべてを認識するという原則と矛盾する。

 

参考:15)がある程度この疑問に答えている。新種と旧種たちとの関係は複雑でありうるが何かひとつの中心的なものがあると思うべきだろう。中心的なものが新種の存在を可能にし、複雑性はそのさきの微調整の結果とみてよい。

 

17)宿主は原始的環境を寄生種に提供している。

 

寄生現象は危機進化論的に興味深い。寄生種は宿主の後に出てきているはずだが後者よりも単純な生物であり、むしろ寄生種の方が古株のようにもみえる。寄生種は宿主が体内に作り出した原始的な環境の中で、昔のままの生活を続けていると考えることができる。

 

参考:新種としての宿主が旧種である寄生種の生活環境を回復した、というふうにみる観点は危機進化論の主要命題の一つになるかも知れない。

 

 

18)旧種の不変性

 

いったん確立された種は生態系全体との関連で生きているのでその後は本質的な変化をしない。その種の中から新しい種が発生する場合でも、残りの固体は以前からの位置を離れることはない。

 

 

 

19)プロスポーツは社会にたまる毒を食う。

 

スポーツを職業としている人々がいる。彼らは人間の生活に必要なものを生産しているわけではなく、流通機構を助けているわけでもない。そういう観点からは不必要であるにもかかわらず、彼らは非常に強く求められていて、英雄視されている。彼らは社会にたまる毒を処理しているのである。

 

20)欠乏の埋め合わせか過剰の処理か

 

プロスポーツは社会に欠乏しているなにかを埋め合わせているのか、それとも社会に過剰に存在するなにかを処理する働きをしているのか。

 

考察:過剰と欠乏は表裏であろう。人間が過剰なら食物が欠乏する、といった具合に。

 

21)人類は自然淘汰の段階にある。

 

ここ百万年ほどの人類の歴史は自然淘汰の過程が主であり、危機進化的な局面打開の場はなかった。危機を起こすに十分なほど人類が栄えたことがなかったからである。人類の歴史に自然淘汰的側面が強いために、進化全体に対しても同じような見方をしがちである。すなわち、「進歩」、「改良」、「競争」に目が行きがちであり、「相補性」「生態系全体の重層化」といった面が理解しにくい。

 

参考:人類が百万年前にも新種だったのか、あるいは新種としての人類は現在だけなのかは考慮すべき観点である。百万年前の人類が、地球の全生態系を変えるほどの影響力を持っていたかどうかということだ。

 

 

22)野外観察者と生化学者の対立

 

野外観察者と生化学者は対立する。前者は生物をそのもっとも幸福な環境のもとで、すなわち、他の生物系との相互作用の中でみようとする。後者は対象をできるだけ切り離し、すりつぶす。両者は対立もするが補完的でもある。

危機進化論は生物それぞれの、というよりひとつひとつの相互作用の起源を求める学問である。種間の関係を優劣ではなく相互扶助としてみるのである。たとえば生化学者がつくる蛋白の系統樹のようなものは危機進化論では意味がうすい。

 

23)恐竜の絶滅は、その中の一種の過剰繁栄のためか?

 

"Dinasaur Heresies"によると、恐竜の絶滅は広範なニッチにわたって起きている。後には大きな空所が残った。その原因が生態系に内在するものだったとすると、どんなことが考えられるか。多分、ある一つの種が他を駆逐し、最後に自分も滅んだのだろう。人類が哺乳類の中で演じている役割を、恐竜の中で演じた種がいたのかもしれない。

 

24)種はなぜ連続的でないのか? 

 

たいして違わない種同士でも比較的画然と分れている。キュビエは「種の間の違いは大きく、中間的なものなど見当たらない」と言った。(「大博物時代」)9/25/87

 

参考:

「種・・・すなわち生きている物質の、異なった、質的に限定された状態・・・の間の、継続した途切れのない形態の連続は、これまで一つも発見されていない。これは連続した範囲のある中間形態が相互競争の結果死に絶えたからではなく、自然界には本質的にそのような連続はなく、またありえないからである。切れ目のない連続というものは自然界には存在しない。連続と不連続は常に一体となっている・・・・・(ルイセンコの『農業生物学』」

今西進化論批判の旅、L.B.ホールステッド(築地書館)」

 

25)形質は適応の結果ではなく出発点?

 

ある形質の出現は必ずしも適応の結果ではなくて、その形質を持ってしまった生物が適応しようとすることによってあたかも形質自体に適応価値があるかのごとく見えてくる。9/28/87

 

26)新種は蓄積を通して旧種達を認識する。

 

新種の出現の元になる蓄積は全ての旧種の織りなす関係の結果として出てくるものなので、新種は旧種全部を認識するようになる。しかしあくまで、その蓄積を通して見るのである。9/30/87(6、15参照)

 

27)旧種は旧種間の競争によって、新種に対応した変化をする。

 

旧種が新種に対応して変化するということがある。植物の棘、毒などは草食動物の出現に対応しているのだろう。しかし、その変化は旧種同士の生存競争の結果であり、旧種と新種との関係を変えるものではない。10/1/87

 

28)一つの新種は一箇所からしか生じないか?

 

ある種の出現が必ず一つの源からでなければならないか、を考えるときに頭に浮かぶのが、宇宙で重原子ができてくる過程である。明らかに、同じ鉄原子が無数の場所でできているに違いない。2つの鉄原子がいくら似ていても、そのことは起源を辿ればそれらが同じ源を持つという保証にはならない。(29参照)10/2/87

 

29)新種の増加は触媒反応に似ている。

 

溶解度を越える濃度までミョーバンの溶けている液は、そのままでは液体のままだが、小さなミョーバンの小片を入れるとたちまち容器の中一杯に結晶が析出し始める。小片を新種の最初の個体と見れば、それはすでに潜在していた可能性に実体化の扉を開いただけであって、自分と同じものを複製しようとした」わけではない(28参照)(進化論における主観と客観の問題)。10/3/87

 

30)生態学は生物の空間的関係を、進化学は時間的関係を扱う。

 

10/5/87

 

31)「過剰・蕩尽」理論は新種出現の契機を説明できる。

 

栗本氏の「過剰・蕩尽」理論は危機進化論に示唆を与える。「過剰」は我々のいう「蓄積」であり、新種はまさに「過剰」を「蕩尽」のために出現するからだ。10/15/87

 

32)恐竜は蓄積を消費し尽くして滅びたのか?

 

10/16/87

 

33)恒温性の効果は陸でも海でも通用する。

 

海から生物が溢れ出て陸性生物が生まれたとすると、イルカやクジラなどのように陸性生物が海に進出したことをどう見ればよいのだろうか。これは多分、いったんある場所で洗練された生物は他のニッチでも有効性を発揮することがあるということだろう。恒温性の獲得ということから来る、特定のニッチに対する有利さは、その種が陸性であるか水性であるかを問わないからである。3/1/88

 

34)危機進化論はナチュラリストの側に立つ。

 

危機進化論が生化学よりもナチュラリストの立場を取ることは否めない(22参照)。世界をすばらしいものにするのではなく、世界のすばらしさを認識するのだ。この違いは大きいが二者択一ではなく、連続的である。何かを観察することと何かを作ることの違いは定かでないときがある。ファーブルとパスツールと、どちらが世界をより豊かにしたか? 3/3/88

 

35)20世紀人は新種の「ゴミタメの孤独」を経験している?

 

中村真一郎の「文学の世界」(1984)によると、19世紀の小説が人間を社会的動物として描いたのに対して、20世紀にはいると主人公に孤独の影が増してくる。例えばプルースト。この「孤独」は新種の「ゴミタメの孤独」ではないだろうか? 新種は少なくとも最初のうちは新種自体の社会を必要としない。また、初期には新種の周りには旧種はいない(蓄積が旧種の体その物でないかぎり)。(9参照)3/5/88

 

36)環境を定数と見る考え方の長短。

 

環境を定数と見て、個体という変数がその定数に最も適応した値を取るように漸進的に変化する、という考え方がある。この考え方の特長は、繁栄していた生物の短期間での絶滅を説明するときに明らかになる。つまり、環境が大きく変化した、というのである。彗星の衝突であれ、大陸の移動であれ、気候の変化であれ、とにかく生物達の手の届かないところでの変化が原因として想定される。環境主導型ともいえるこの考え方の弱点は、生物自体が環境を変える力とその法則性についての考察を制約してしまうことにある。一方、強みとしては、固定された環境という尺度を利用して生物の適応を厳密に考察できるということがある。2/28/89(4/5、10/88ノート参考)(38参考)

 

37)優秀なものが生き残る、という有害な観念。

 

進歩したもの、優秀なものが生き残るという観念は根強い。これは19世紀イギリスの社会通念が一般化したものと見做す人もいる(「ダーウィンの誤り」トム・ベセル)が、21世紀に近づいた現在でもこうした観念をほとんど当然のこととして受け入れている人々が極めて多いという印象を受ける。もともとトートロジーであるために、完全にこれを打ち負かすことはできない。進化を真剣に考察する際には有害無益な観念である。2/28/89(参考4/7/88のノート)

 

38)性選択説はご都合主義的である。

 

物理的な環境への適応として説明しにくい形質に対して、性選択という概念が提唱されている。例えば、アイルランドヘラジカの装飾的な大角が雄同士の優位の決定に有効だったというような説明である。確かに一応理屈は通るとはいえ、自分の角が短くてもめげない雄や、馬鹿げた大角に愛想を尽かした雌が出現したら大角派は元々物理的環境への適応は劣るのだからすぐに一掃されるはずではないか、という疑問が起こる。進化を説明する道具としての自然選択説は、生物を環境の要素にいれようとするとかなりご都合主義的な議論を許してしまうところがある。4/10/88(3

6参考)

 

39)目的の科学を引き受ける進化論

 

進化論は他の自然科学の理論と違って、人間の自己規定を含まざるを得ない。進化論は手段の科学に留まることができず、目的の科学たらざるを得ない。そのために進化論が被っている歪曲は見るも無残である。トートロジー、擬人主義、主観と客観の混合、などどれ一つとっても致命的な欠陥と思える傷がどの進化理論にもある。しかし、目的の科学という、我々の思考システムへの最大の挑戦を雄々しく受けとめている点は認めなければならない。目的の科学とはしかし、人類の存続こそが唯一の目的で、全てはそのための手段である、といった堕落した態度とは何の関係もない。

 

40)新種は母種からの隔離で生じる(異所説)

 

「エルンスト・マイヤーによって広められた異所説では、新種は母種の分布範囲の周辺部で母種から隔離されるに至った非常に小さな個体群から生じる[E・Mayer、1942]。この小さな周辺隔離個体群における種分化は、進化の標準から見て非常に急速で、数百年ないし数千年(地質学的年代からすればほんの一瞬)でなされる。」p85、ダーウィン以来(上)

 

これは9)に関係している。異所説はただ可能性を指摘しているだけであるが、9)では必然性までが説明されているところが違う。

 

41)放射能を吸収する新種に旧種が保護される。

 

人類の活動によって放射能汚染された地域を考えてみよう。遺伝子の修復能力の以上に高い生物、あるいは放射能に対する適切な防護を持った生物は、他に何の取柄がなくてもそこにニッチを得ることができる。競争相手がいないからである。この段階では旧種とは余り直接の関係はない。この地域では旧種は死に絶えているから。新種は淘汰圧が異常に低いので、様々な変異を遂げる。その内には放射線を吸収してみずからのエネルギー源とするものが現われる。凡そ生物に害を与えることのできる要因は、対応の仕方によってはエネルギー源ともなるはずであるから。例えば、ある種が放射性の地面をマットのように覆い、放射線を吸収してそこからエネルギーを得るとすると、そのマットの上では放射能に弱い旧種も生活できるようになる。これは、「17)宿主は原始的環境を寄生種に提供している。」の例となる。9/4/88

 

42)寄生している旧種とゴミを食う新種は区別できるか?

 

ライオンとシマウマではどちらが先に生じただろうか?ライオンがシマウマを食べるからといって、シマウマの方が古いと断じることはできない。新種は旧種の生活環境を回復することによって旧種の食物となる場合があるからだ(17、41)。「12)危機進化論的「種」には順番が付けられる。」という命題は生態系が複雑に発達する過程を理解する鍵になるはずだが、現実の適用はそう簡単ではない。寄生種と新種をその現在の状態だけで本当に区別することができるのだろうか?この場合、ライオンの生活形態がシマウマのいない時代に可能だったかどうかを考察することから道は開けそうである。例えば、腸内細菌は人間の腹の中にいるが、その生活は太古の先祖と変わらないのではないか?9/5/88(大幅変更)

 

43)人間は如何にして複雑さを保つか?

 

人間を生んだのが生態系の複雑さだとして、それなら人間を単純な環境に送り込んだらどうなるのか? 人間以外の種がなくなっていくとき、人間も結局その後を追うのか、又は人間だけで複雑さを保持していくのか、あるいは人間の繁栄が全く新しい種の出願を促すのか?(7、14参照)10/3/88

 

44)個体の自由か、決定論か? 進化論の倫理性

 

進化を考察するとき、一つ一つの個体に選択の自由があると考えるべきか、それとも決定論的に扱うべきか、定かではない。しかし、進化論を倫理、少なくとも処世訓として読み取ろうとする場合は完全な決定論では困ってしまうだろう。一見没倫理的にみえる自然選択説などでも、どういう生物が生き残るかという問題設定と、生き延びるということに最大の価値をおくことの間には本質的な繋がりがある。進化論はある種がどうして繁栄し、どうして滅びたかに関心を寄せるのだから、この価値観の持ち主にとって没価値的ではありにくい。自然選択という考え方自体、まず個体に行動の自由があり、後に自然がある行動を取った個体を選ぶというイメージがある。下に引用するグールドの指摘をこの文脈で考えることができる。進化論というものが決定論的に捕えられているのであれば何もわざわざ人間と他の生物の間に壁を設けたいなどと誰も思うまい。サルの体重を計るにもヒトの体重を計るにも同じ秤を使うことを誰も怪しまない。壁を設けたい人々はすなわち専科論が指し示す倫理に反対なのである。というわけでグールドのこの指摘は進化論が決定論的に捕えられてはいないという実例を示したことになる。12/7/88

 

引用[ダーウィン以来(上)]

「それは我々が人間自身と自然との間に断絶がないということを受け入れたくないと思っていることであり、我々人間の独自性を主張しようとしてそのための基準を懸命になって探していることである。」p67 

「残された唯一の道は、素直に我々とチンパンジーの間には何の断絶もないことを認めることである。そうすることによって我々が失うものが何かあるのだろうか。あるとすれば、魂という時代遅れの概念だけであって、そのかわりに、我々が自然と一体であるという、よりつつましい、より崇高でさえある見通しが得られるのだ。」p68

 

45)進化論は個人の世界観の表現

 

進化を考える際、「何が当たり前のこととして起こるか」ということに主に留意する。かせきの証拠と分子生物学の成果をもとに蓋然性の考察をするのである。ところで、何が蓋然的であるかということは考える者の世界観によるので、結局は進化論は個人のうちにある世界観の表現となる。12/8/88

 

46)危機進化論では、未来を予想する生物はいない。

 

原子力発電を控えるべきかどうかについて考えるとき、進化の方向として所謂環境保護主義が妥当なのか、それともどんどん何でもやってしまっていいのか、というような選択があるようにみえる。しかし、予測に基づく選択という見方の枠組みの中に進化の概念がうまく嵌まるかどうかは極めて怪しい。未来を予測するような生物を勘定にいれない進化論が不完全なのか、あるいは進化というものは我々の予測を本質的に越えたプロセスであるのか、どちらかだろう。危機進化論は後者を取っているわけである。

 

47)廃棄物の蓄積によって主役が交代

 

生物の歴史を見ると、ある生物の廃棄物を始末するべく登場するのは別の生物であり、廃棄物の秘めるエネルギーが新種の出現を支えているように見える。原子炉の放射性廃棄物の始末が人類の手に余るとすれば、そして廃棄物の量がどんどん増えるとすれば、それを利用した生物が現われるだろう(41)。一時大繁栄した種がいつのまにか主役の座を降りることになるのは、繁栄ゆえの大量の廃棄物の発生と、それを利用する新種の勢いのためだろう。自らが栄えれば栄えるほど、次に来る種に大きな力を与えることになる。12/31/88

 

備考:これは基本的に1)の繰り返しだ。

 

48)生物は未来を予想することはない。

 

唯物論的な進化論では、未来を予想する生物などというのはありえない。生物が未来を予知しているように見えるのは、繰り返し起こる現象に適応しているからである。この場合、繰り返しという中には不変も含める。一方的に変化して繰り返さない現象でも、例えば速度、というふうに捉えると走っている車も不変なものとして捕えられる。速度が変化するなら加速度として捉える。結局我々は未来を見ることはできず、ただ過去に起きたことの延長を見ているだけである。危機進化論は未来の本質的不可知性を説く。(46)1/28/89

 

49)DNAのない下部構造で放射能に耐える植物。

 

放射能の中で生きる植物の知恵の例として、地下や地上に近い下部構造は放射能に弱いDNAに頼らないで済む単純な機能のみを営ませ、同時に放射能をそれで遮断することが考えられる。DNAを持つ部分は上部構造として下部構造の上に乗り、複雑な機能を営む。2/14/89

 

50)複数の場所でゴミを漁るための大型化。

 

好気性生物は酸素という遍在的なゴミを利用していたので、大型化する必要がなかった。しかし、ゴミには散在するゴミもあり、そうしたゴミを効率良く処理し、あるいは例えば複数種類のゴミを同時に必要としてそれらが互いに離れた場所にあるという場合、大型化による遠距離到達能力が望まれる。(植物でも光と地中の化学成分の両方に達するために大型化したわけだ。)(2参照)2/19/89

 

51)進化論はDNAにこだわらず、人間の存在も説明すべき。

 

進化論はエネルギーの流れの精妙化としての生物を捉えるのであるから、DNAとか蛋白質にばかり拘泥するべきではない。物理的に系が複雑になると精密な適用が加速度的に不可能になるような考え方や、部分でもって全体を説明しようとする怠惰さは戒めたい。進化はこの一瞬にも起こっている。人間という現在の大変化の担い手を通じて進化の原理が働いている。進化論は最深部においては主観と客観の間に橋を渡すものとならねばならぬ。貴方が進化の産物であるのなら、進化論は貴方の存在を説明しなければならない。2/20/89

 

52)見慣れたものの中に未知の怪物が現われている。

 

ジャンボジェットやスペースシャトルの事故も良く調べると初歩的な原因という。しかし、それでわかったつもりになるのも危険だ。危機進化論的には我々の歩む1歩1歩に全く未知の危険性が待っている可能性があるのだから。そしてその未知の怪物はしばしば最も見慣れたものの顔をしているものだ。2/22/89

 

53)昔風のやり方が安全とはかぎらない。

 

昔通りの生活をしていれば安全という考え方がある。公害や核の恐怖の下で暮らす我々にとっては魅力的な考え方である。しかし、危機進化論的に考えるならば、長く安定して続くはずの昔風の生活が何らかの意味での毒廃物を蓄積してきたからこそ今日の急激な変化がある。知識、論理、そして言葉というもの自体、正しく使用されるかぎり過去に従うしかないものであって、これまでの延長でない未来に対してはまったく無力なのである。(48参照)2/23/89

 

54)突然死体が耐えがたいものとなったことについて。

 

フィリップ・アリエスの「死の歴史」によると、つい18世紀まではヨーロッパの人々は死体がただ乱雑につみあげてある墓地であいびきをしたりしていたものだが、あるとき突然それが「耐えがたい情景」になって抗議の声がそこら中から湧いてきたという。これも危機進化論的に考えると、何かしら定義しがたいものが蓄積していて、あるとき突然効果を現し始めたのだと言える。2/25/89

 

55)繁栄の後のよりつつましやかな子孫たち。

 

地球の歴史の中で、その表面をほとんど埋め尽さんばかりに繁栄した種(大きな意味で)が次々と現われ、やがて闇の中に沈んでいった。しかし、その恐るべき大浪費の後に、よりつつましやかだが、明らかにその大群と直接のつながりを持つ生物を残していく。古代の軟骨魚類の大群はサメを残し、両生類はカエルを残した。恐竜は鳥類を残した(58参照)。アンモナイトは多分イカやタコを残したのである。2/26/89

 

56)初期相、激増相、淘汰相、そして安定相

 

新種は発生の最初は近辺の食物(旧種の蓄積)の量で増加が制限されるが(初期相)やがて何らかの移動方法を獲得すると爆発的に増加する(激増相)。この過程では移動力と大量処理能力が優先するので大型種を生みやすいし、淘汰圧が弱いので放散現象がみられる。生態系全体の蓄積が食い尽くされるにつれて新種同士の苛酷な生存競争が始まり、多くの種は絶滅し(淘汰相)、旧種の生産する蓄積と見合う量だけを消費する新種が安定して存続する(安定相)。(57、61参照)2/27/89

 

57)恒温性は激増相向き。

 

恒温動物は変温動物に比べて優れているので後者のニッチを奪い取った、とする俗説は間違いである。恒温性の利点は寒くても活動できるということだ。そして欠点は何もしなくても保温のためにどんどんエネルギーを消費してしまうことだ。こうした利点と欠点を考えれば両者の最適ニッチは明らかに異なることになる。寒冷地では爬虫類は見られないし、砂漠ではヘビやトカゲが巾をきかすことになる。進化的には、生態系全体がある程度の豊かさに達しないと恒温動物は支えきれないし、どちらかというと安定相よりも激増相に適した体制であろう(56参照)。2/28/89

 

58)鳥類が恐竜を滅ぼした?

 

恐竜を滅ぼしたのは鳥類かもしれない。鳥類は恐竜の仲間といってよい。ちょうど人間が哺乳類の仲間であるのと同じように。そして、現在人類が他のすべての大型哺乳類を絶滅に追いやりつつあるのと同じことを鳥類もしたのかもしれない。人類の哺乳類殺戮は長距離移動能力の獲得とともに加速された。鳥類の長距離移動能力は人類が飛行機を発明するまで全生態系で最も優れたものだった。(55参照)3/1/89

 

59)他の動物は能力があっても殺戮をしないのは何故?

 

動物の中にはその気になればずいぶん人間を困らせられそうなものもいる。だが、何故か「その気」にならないようだ。人間だけが「その気」になって他の動物をどんどん殺すのは何故か?3/2/89

 

60)人間がみるとき動植物はすでにその役を終えている。

 

人間は動植物の「既に実現してしまった姿」を見る。それは食べられるゴミとしての姿である。新種が旧種をみる見方としてはそれしかない。動植物の生きた世界は我々の見ているよりも向こうに広がっているのだろうか? 人間が動物達を単に「利用できるもの」とみるだけでなく、それ自体観賞に耐える芸術品と見始めるのはどういう段階なのだろうか?3/9/89

 

61)文化は激増相の共通の特長か?

 

人類が今展開している文化というものは、激増相(56参照)の新種が示す特長なのだろうか? もしそうだとすれば、ヒト以外の生物にも同様のことがかつて起こっただろうか? 恐竜の文化というものがあったとすると、それは人間にもかなり理解しやすいものではないだろうか? 例えば、イルカは魚竜の「気持ち」をかなり理解する、と私には思えるのだ。3/11/89

 

62)進化論は主体を含む系についての法則。

 

ダーウィンの進化論は主体を含む系についての法則性を主張するところに魅力がある。それ以外、どのような結構な理論を持ってきても系の中に主体を入れると法則性が期待できなくなってしまうのだ。物理法則は役に立つ。しかし、主体としての自分をその中に位置させることはできない。いや、できるのだが、それは神の座なのでひとつしかなく、人間同士の関係の調整には役立たないのだ。3/14/89

 

63)危機進化論でなく補償進化論か?

 

新種は旧種たちの世界のゆがみを補償するものとして現われる。従って危機進化論のかわりに補償進化論という言葉を用いても良いかも知れない。5/9/89

 

64)従属栄養生物の方が先(前川)

 

「しかし近頃ではむしろ逆になって、動物や菌類のように有機栄養を取るやり方が最初の栄養の取り方だとされています。それは原始生物がお互いに仲間を栄養として採ることが先で、やがてしだいにとも食いが進んで数が減ってくると、はじめて食料の不足を別の形式でカバーするやり方が生じたはずであり、そのやり方こそ光のエネルギーを利用して無機物から有機物を作る光合成の始まりであろうという見方です。」p47 「植物の進化を探る」前川文夫(岩波新書)12/4/89

 

65)Burgess Shale の大発生とその後のくじ引き

 

グールドの新しい本にWonderful Life というのがある。5億年前の地層(Burgess Shale)に非常に多くの節足動物の化石が残っており、以後の節足動物の進化と思えるものは実ははじめからいた種の中のどれがたまたま生き残ったかという「くじ引き」的な出来事であったというのである。1/15/90

 

66)大隕石による恐竜絶滅説

 

6500万年前の恐竜の絶滅は大隕石の衝突が引き起こした厚いほこりの雲で太陽光が地上に届かなくなったことによる、という説が近年力を増してきたらしい。その結果植物がまず激減した。鳥類が恐竜の唯一の生き残りである、というのは、食物の空間的密度が低下した結果、広い範囲をカバーできる彼らだけが餓えずに済んだということだろう。1/16/90 参考(58)

 

67)恐竜絶滅の原因は多分一過性

 

恐竜が隕石という一過性の原因で滅びたのか、あるいは危機進化的な内在性の危機を迎えたのかは興味ある問題だが、後になって哺乳類が彼らのニッチを、非常によく似た形質の種で埋めたということは、それが一過性の災難であったことを示唆する。危機を救う新種が現われず、多くの種が絶滅するということは、考えにくいからである。すなわち、旧種が多く絶滅するようでは危機進化的なtransitionとはいえない。1/23/90

 

68)種が別れるのは激増期

 

DNA配列から見た2つの種の遺伝的な距離を元にして、その2つがいつ別れたのかを決定する手法がある。ところで2つの種が別れたときというのは、危機進化的にいえば激増期になるだろう。この場合、どちらの種も新種かもしれないし、片方の種は旧種かもしれない。いずれにしても形質の違いは遺伝的違いよりも速く出てきたことであろう。激増期には形質的に非常に異なってみえる亜種の間でも交配は可能である。条件が厳しくなると亜種たちは自分に最適のニッチへと後退していき、異なる亜種との接触が失われて、遺伝的な距離が増大していく。1/31/90

 

69)優生学よりも遺伝的な拡散が重要

 

一時、優生学ということがはでに話題になり、ナチスはかなりそれを実行に移した。よい遺伝子だけを残すべきであるとうわけだ。危機進化論的にみれば変わり種や一見弱々しいのでも生き残るというのは新種登場直後の激増期の特徴である。長期的に見れば、今は遺伝的な拡散を続け、来たるべき自然選択の時期に備えるべきだろう。2/1/90

 

70)身障者のネアンデルタール人は何故長生きしたか

 

あるネアンデルタール人の化石に生前の骨折や片目の失明、リューマチなどの証拠が歴然としており、彼が推定死亡年令の40才まで生きたのは仲間が食物を与えていたからだろう、という。危機進化的考え方はここにも一言さしはさまざるを得ない。激増期なら相当欠陥のある個体でも生き延びるのだ。2/2/90

 

71)一神教は安定期、多神教は激増期?

 

東欧の急速な変化を社会主義の最終的な失敗とみる論説の中に、梅原猛氏の「一神教から多神教へ」というのがある。もちろん共産主義も一神教の一種とみなすわけである。ところで、一神教とは安定期、多神教とは激増期に対応するのではなかろうか?2/5/90

 

72)危機進化サイクルの各段階

 

危機進化論における新種の出現とそれに続くプロセスのサイクルは次のようになるはずだ:

1)安定期

2)危機

3)新種の出現

4)新種の激増期

5)新種の飽和

6)自然淘汰

7)安定期 2/6/90

 

73)新種の取柄は遺伝的とは限らない

 

新種の何が新しいか、ということは、考えてみると何でもよいのだ。遺伝的なものは明らかとして、そうでない形質、行動でもそれが新種を生みだす原動力になりうる。ある種の学習可能な生活習慣が個体や群の運命を左右することもあるだろう。遺伝的な変化でもトランスポゾンのような場合は子孫以外の個体、あるいは他種にまで伝わることがありうる。2/11/90

 

74)普遍的無意識から歴史の激変への影響 see 87)

 

「歴史における激烈な変化は、一般にはもっぱら外的原因によるものとされている。しかしながら私には、外的事情は無意識のなかで長い間準備された生活や世間に対する新たな態度が明らかになるきっかけの役しかしない場合が多いように思われる。社会的、政治的、宗教的状況が普遍的無意識に影響するというのは、一社会の生活の中で優勢な見解や態度に抑圧されているそれらすべての要因が、次第に普遍的無意識の中に積もり、その内容を活性化するという意味からである。」p54「オカルトの心理学」ユング(サイマル出版)こういうユングの考え方をどこかで読んだことが危機進化論の無意識的なきっかけになったのかもしれない。2/19/90

 

75)病気による進化

 

「パンツを捨てるサル」の中に、病気による進化、という考え方がある。「外部」から侵入してきたウィルス等のために多くの個体が死ぬが、中に生き残ったものはそれまでにない強みを持っている、というもの。栗本氏の場合、「外部」というのがテーマなので「侵入」となるが、これが自分のクソなら危機進化的な話になる。4/29/90

 

76)人間だけが増えるのか? see 43)

 

これからの地球はほとんど人間だけが繁殖していくのだろうか。それとも生態系の複雑さを保っていくのだろうか。ここ数十年の動きを見れば前者とも思える。危機進化論的な考え方は後者を指しているようだが。1/9/91

 

77)人間は過去の大蓄積に依存している see 14)

 

人間は新種だが、人間の掘り起こした廃棄物は石炭、石油、ウランなど数億〜数十億年もの歴史のある堆積なので、それだけの期間に出現した種すべてが深甚な影響を受けるのかもしれぬ。実際、現代でもアメリカなどの農業はトラクター、化学肥料、そして流通経路というふうに大量の石油に支えられている。人間はまさに石油を「食べて」いるのだ。人間という新種が生態系をこれだけ乱しているのに、それが人間自体にそれほど影響しないのは石油という過去の大蓄積に依存しているせいだ。1/10/91

 

77.1)生態系の複雑さとバイオマスの蓄積が人間のエネルギー源

 

人間は生態系の複雑さプラス退蔵された単純なバイオマスという2つの廃棄物がエネルギー源になっている。1/21/91

 

78)新種における従来の能力の転用 see 84), 88)

 

新種が廃棄物を利用して増える場合、これまでのニッチで必要とされていた能力の一部はそれほど必要とされなくなる。廃棄物で生活できるという意味で、新種の生活は単純になる傾向があるからである。この場合、従来の能力が新しいニッチで、従来とは全く違う目的に利用される可能性があり、これをとりあえず能力の「転用」と呼んでおこう。例として考えられるのは、サルが何百種類もの食物、非食物を後天的に学習できる能力が、農業や化石燃料のおかげでそれが不要になったとき、人間の「自由な」知的能力に転化したという見方である。1/21/91

 

79)火の利用は食物の「横取り」の始まり

 

人類史において火の利用は大きなエポックであろう。しかし、人が火の利用によって初めて食べられるようになった食物、例えば穀類、豆、イモなどは、元々他の生物の食物であったわけで、火を使えるようになった時点が人類が新種の役割を果たした時点とは言いがたい(これを「横取り」と名付けよう)。ただし、土器や金属を作り始めたことによって、これまで生態系に積極的に利用されていなかった物質を導入した点は危機進化的に考慮する必要がある。1/23/91

 

80)アイオワ州の肥沃な土は蓄積

 

アイオワ州の農業は数メートルに達するという肥沃な土に頼っており、毎年少しずつ表土が薄くなっているという。これは危機進化論的展開と言える。ただしこれは数十年しか続かないようなので、新種が旧種から独立する時間としては短すぎる。それでも、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、マーク・トウェインなどの新しさがそれだとは言えるかもしれないが。1/24/91

 

81)滅ぼされたインディアンは蓄積か?

 

客種の侵入によって滅びた種は一種の蓄積、ということになるのか。(ヨーロッパ人のアメリカ、オーストラリア侵入)直接原住民の肉を食べたというわけではないが。1/25/91

 

82)イラクの敗北は旧種の精神の滅亡か?

 

アメリカのイラク征伐が一応終わった。50万トンに及ぶ爆弾を40日の間に落とされたイラクはほとんどの産業施設を破壊された。命中率の高い爆弾を使ったので民間人の殺傷は少ない、と称するものの、さて?イラクの兵隊は多分10万人くらい死に、アメリカ側は100人以下(後に300となった)、という圧倒的なワンサイデッドゲームだった。

 やがてアラブもアメリカンデモクラシーを受け入れるのだろうか?これはやはり客種による旧種の滅亡ととらえるべきか。肉体は生き延びても精神が死滅するという光景である。3/9/91

 

83)「私」は羊の形をした雲のようなもの? see 48), 44), 53)

 

人は自分の意識が行動を支配していると考える。しかし、外から見た場合、そこには物理的、化学的な事象の連鎖があるだけである。

 人の持つ生の感覚の中には予見、判断、決断と言った自由のしるしがあるのだけれども、外に現われる行動は物理化学的に解明できる現象でしかない。とすれば、主観的な「私」という存在は、人間という生き物にたくして自らを見ているのか。ちょうと雲の形の中にひつじや魚を見るように。6/6/91

 

84)急激な進歩は進化というより旧能力の新分野への応用 see 78), 88)

 

科学技術はここ100年間で急速に発達した。しかし、進化的にそんなに新しい大変化が100年という短期間で起きるはずはなく、100年どころか5000年前の人間でも生物としては現代人と変わらない。とうことは、現代の知識や技術は完全に新しいものではありえず、古い能力を新しい分野に応用しているのだろう。11/28/91

 

85)バラエティが減るのは生態系が不健全ということ?

 

Robert BakkerがDinosaur Heresiesで述べていることだが、恐竜の絶滅より前に、同等の種のバラエティが減少するという事態が起きている由。これはたとえば同じ場所で大型捕食動物と2度出会った場合、その2頭が同種である確立が低ければバラエティが多いことになる。

 Bakkerはこれを生態系が不健全になっている証拠としており、さらに原因は地球の地学的変化だという。生物の側の積極的な理由を考えてもいいような気がする(たとえば人間による他の大型哺乳類の減少)。2/2/94

 

86)恐竜というよりも大型の動物をひとまとめにするべきか

 

2)、3)、4)、5)あたりを又むしかえして考えているのだが、恐竜がどっと増えたとして、それが廃棄物という点でどういうふうに生態系をおびやかし、又、どういう生物群が新しく登場してそれを解決したといいうるのだろう?

 そもそも、a)恐竜は今人類がプラスチックや核燃料などの形で作り出している処理不能な廃棄物に相当するものを作り出しただろうか?b)大きな視野で見れば、恐竜という狭い定義よりも、大型の動物、といったとらえ方の方が危機進化論的考察には合っているのではないか?

 a)とb)を考慮すると、たとえば大型の陸生動物(爬虫類であれ恐竜であれ)を考えて、廃棄物としては彼らの死体が第一かもしれない。最初の陸生動物は多分草食だから、死体の処理は問題だったかもしれない。しかしそれは近縁のグループがスカベンジャーに変身することで解決されたろう。2/23/94

 

87)危機とは二つの生の体系のはざま(オルテガ) see 74)

 

74)に関連して、最近読んだ「オルテガ」*から引用してみる。

「オルテガによれば、危機とは、二つの「信念」の体系のはざまにあって、いずれにも落ち着かぬ過渡的状況を言う。二つの信念の体系と言ったが、二つの「生」の体系と言い換えてもよい。その中で、一つはその直前まで有効であった生の体系であり、もう一つは萌芽として現われて来る、別の新しい生の体系である。もっとも、後者は未だ特定されず、漠として混乱した状態にあって意識すらされぬ場合が多い。そこで、通常、われわれは、伝統的な生の体系を一応惰性的に維持していながらも、何となくどこかおかしいという感じを持つ。ただ、はっきりしていることは、われわれの生が、つまり人生が、根本的に問われているということである。」(p20)4/12/94

*色摩力夫(中公新書)

 

88)自然から他の人間へと対象を変える転用 see 78), 84)

 

78)で提起した「転用」の概念は、人間の場合、自然から人間へ、という転換について考えさせる。現代ではかつて自然に対して使われていた能力が人間に対して使われる。自然が社会にとって代わられているからだ。人間が、木や石を扱うように他の人間を扱うという契機が、歴史的な社会化の過程の中にあるはずだ。6/23/94