040322(月曜)
Babylon
5という番組はスタートレックみたいでもあるが、地球を含めた宇宙人の間の戦争が現実の戦争の心理をうまく描いた形で展開するので、おもしろいし、また重くもある。まあ主人公たちが「光の勢力」として完全に正義の味方であるのはちょっと簡単すぎるけど。
040321(日曜)
子供が兵役にとられるのではないかと心配だと口にしたら、「国のために兵役に就くのは当たり前だ」、「兵役の方が志願制より公平だ」とか言われた。この人たち、現代の戦争がどんなものだか知ってるのだろうか?
040320(土曜)
米国によるイラク攻撃の一周年。ポートランドのダウンタウンでは数千人が反戦デモ。デモ隊の服装がいかにもヒッピー風のが多いのが気になった。背広姿で反戦を主張する人たちがいて欲しいと思った。数人連れの若者が歩道から「go
bush!」とデモ隊をやじり、ショッピングモールの建物に入るときに、ドアのところを警護していたセキュリティのおっさんとこぶしをつき合わせる連帯の挨拶をかわしていた。なんかデモ隊が浮いてる感じがした。
040319(金曜)
UU教会のニュースレターに短い記事を書くのに何時間もかかってしまった。表現するということは、特に決まった読者がいる場合にはいろいろ神経を使うものだ。何をどう書いても気を悪くする人が必ずいるみたいだ。誰の気分も害さないように、なんて思っていると何もかけない。
040317(水曜)
ところで参加者はなんといっても英語圏がほとんど。アメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリス、アイルランド、南アフリカ、など。英語があまりわからない参加者の筆頭は日本人。ドイツ人も多かったが彼らはたいてい英語はよくこなす。フランス、イタリアはゼロ。東欧とロシアがちらほら。
040316(火曜)
グループ全体が「暖まって」くると、こちらが悲しくなったり落ち込んだりしているとすぐに誰かが助けてくれるようになる。コミュニティの理想形態が一時的に現出したようだ。
040315(月曜)
ポートランドのプロセス志向心理学派が主催する8日間の「ワールドワーク」に参加してきた。200人が一堂に会して行う大グループセッションは人種や性愛におけるマイノリティの人たちが強烈に感情を表現し、その熱でグループ全体の気持ちが溶けてくるという独特の状態が生まれたように私には思えた。
040229(日曜) じっと坐って壁を見つめている、というのは「楽しい」とはいえないが、妙に充実感がある。坐禅には眠りに似た回復作用があるみたいだ。本当に眠ってしまっては、身体は回復しても心はかたまってしまって回復しない。起きていてある程度集中しながら一点を見つめていると、心の中の何かが少しずつ自己修復していく。
040228(土曜)
人は人の世界に生きているだけでなく、人でない世界にも生きている。動物や木々や岩が語りかけてくるということがあり、そして人の最深部にはなんの意志も感情もない、ということもある。
040227(金曜)
なんとなく心惹かれることをやる、というのは中年にはむずかしい。いろいろやるべきことがたくさんあるので、特に明らかなメリットのないことをするのはどうも気が引ける。ところがそれでもえいやとやってみると、気持ちに張りができて、義務も果たしやすくなる、ということがある。
040226(木曜)
ナナフシを食草にとまらせたままその鉢を窓の横に置いた。ものぐさだから逃げないのではないかと思っている。虫との共存の度合いを一歩進めた形だ。
040225(水曜)
このごろ運動すると関節や腱が痛くなることが多いので、補強運動として、アイソメトリック、つまり動かさないで力を入れるものをいろいろやるようにしている。また、多少動かしても可動範囲を減らして関節損傷を防ぐようにしている。ぎゅーっと力を入れた後は呼吸が深くなって気持ちのいいものだ。
040224(火曜)
ぎりぎり可能な締め切りで仕事をするというのも、けっこう楽しみなものだ。接心の場合と似て、次に何をするかをあまり考えなくて済むから。
040223(月曜)
生後4ヶ月くらいの猫がうちにいる。椅子やソファに坐ってこの子をへそのあたりに置くと実に心がなごむ。
040222(日曜)
禅センターの法話でも、UU教会の講話でも、私は聴衆の質疑応答を聞くのが楽しみだ。自分が何かいいたいときはもちろん、自分は特に何も言いたくなくても、自分がある程度知っている人がどういう質問をし、また先生や説教師がそれにどう答えるかを観察するのは実に楽しい。
040221(土曜)
昨日はUU教会の中学生6人と父母がマウントフッドの中腹の山荘に泊まった。男性陣はビリヤードを夜中までやった。私はおもちゃでなく本物のビリヤードはほとんど経験がないが、けっこう楽しめた。
040219(木曜)
テラリアムに矮性のバラを植えてみた。小さな花もつけていてかわいらしいし、葉がたくさんあるのでナナフシのえさにもなる。私の趣味としてはきれいな花がなくてもいいが、食卓の横にあるので、家族や友人に少しでも快く見えるようにという配慮である。
040218(水曜)
おしゃべりがとても楽しいというときもある。それじゃと思っておしゃべりすれば楽しくなるかというとそういうわけにはいかない。この辺の機微がよくわからない。私が知識というものにあまり信をおかないのは、こういうふうに以前の経験というものがあてにならないことが多いからだ。
040217(火曜)
久しぶりにフルートを吹いて楽しかった。そんなにうまく吹けるわけではないのだが、なんとか2オクターブくらいは音が出せて、知っているメロディーなら多少つっかえながらもなんとか吹けるという程度。それでも音色がとても心にしみることがある。こういう感じはあまり練習するとかえってわからなくなる。
040216(月曜)
そのとき面白いと思った本を読むのは楽しい。近頃ではそういうことはあまりないが、今日は父の若い頃の知り合いが書いた本を読んでいて、往時の父の言動を興味深く読んだ。自分の意見を強く主張する人ではなかったようだが、納得がいかないとてこでも動かないという、野牛のような若者だったと書かれている。
040215(日曜)
いろいろシェアリングした日は、充実しているとはいえるが、楽しいとはいえない。言葉は心を固まらせる。言葉を使わずに人と一緒にいるというモードがもっとあったらいいと思う。
040214(土曜)
今日は元気の出ない日だった。やりたくないことをやらねばならないとき、タロットカードを引くとちゃんとネガティブなカードが出たりする。変な話だが、カードがそういっていると思うと、少しは気持ちが落ち着く。気の進まないことでもやらざるを得ないという場合はもちろんあるわけで、そういうときに、自分のネガティブな気持ちを責めたり、やらざるを得ない事情を呪ったりするよりも、やりたくないけどとにかくやってるんだということをまっすぐ認めるほうが健全なのかもしれない。
040213(金曜)
おとといから水にひたしておいたsugar
peasを10個くらいの小さな鉢に分けて蒔いた。うちの唯一の南向きの窓際に並べた。日本ではスナックエンドウというやつだ。成っているのをそのままもいで食べてもおいしい。私は少しゆでたのが好きだが。
息子の友達が最近大きなテラリアムに植物を植え、池を作ったりしてカエルを飼っているというのでいろいろ聴いてみた。私の今のテラリアムではカエルは予定していないが、ナナフシ、カマキリを含めて数種の虫を共存させたいところだ。今朝見たら昨夜置いといたニンジンの頭がひっくり返っていた。ミミズが健在だということだ。ミミズは夜中に半身を穴から出して、食べ物にからみついて穴の方に引き寄せる、という芸当をする。光や振動に敏感だからなかなか目にすることはないが。
040212(木曜)
次に何をしようか迷うときにタロットカードを引くと結構めりはりがついて良い結果になる。やることのリストにはたいてい5〜10個くらいの項目があるが、引いたカードともっとも関係ありそうなのをやるのだ。なんでこの方がいいのか、というと、ただ何をするべきかを考えるだけではすぐ思考が袋小路に入ってしまうが、カードの絵と説明を見るとその具体性に対して具体的な応答が自分の中に出てくるということらしい。
040211(水曜)
裏庭に野菜ごみを埋めたときに掘り出した数匹のミミズをテラリアムに入れた。ラズベリーの根も出てきたので、それも植えてみた。将来ナナフシを中で飼う下準備だ。3センチほどのムカデも。
卓球も楽しい。最近息子がけっこううまく打ち返すようになったので、張り合いが出てきた。というか、一日に何時間もプレーしたら数日で追い越されそうだ。言葉を使わずに人間と交流する方が僕は楽しいようだ。禅の接心とか。
040210(火曜)
ヤモリをかつて入れていたテラリアムに裏庭の雑草やこけを土もつけて入れてみた。網の蓋の上に蛍光灯を置くだけで、けっこうきれいだ。今回は植物を食べる虫は控えめにしようと思う。なんとなく眺めているだけで気分がいい。ちょっと余計な茎などを切って見栄えを改善しようか。
040209(月曜)
植物と虫を、家の中のいつも見えるところにおいておきたい。感謝祭の食卓に似合わないということで虫の入ったテラリアムを地下に移してから、どうもさびしい。ふと思ったのだが、鉢にブラックベリーを植えてナナフシをとまらせておけば、とくに何かかぶせなくても逃げはしないのではないか?
040208(日曜)
朝ダルマレインで坐禅していたら、首の右側に何か感じた。ハエかなと思ったが、ゆっくりと首を這い登って顔に達したその動きから多分クモだろうと察した。そのうち忘れてしまった。30分坐って、10分の歩き禅の途中でまだ首の左側にいることに気づいた。また坐るとき、首の後ろにかゆみを感じて無意識に手で触ってその手を見たら、幸いつぶれておらずまだ五体そろっていて、ほっそりとした体長5ミリ程度の小さなクモだった。片側の前の2本と後ろの2本の脚がそれぞれぴったり合わさって、全体として4本しか脚がないように見える。こういうのは普通家の中ではなくて、花の陰でハエを待っていることが多いのだが。うちから自転車で来る途中で僕の頭髪にひっかかったのかもしれない。
040207(土曜)
近所の夕食パーティで合った2歳の男の子がバスケットに入っているいくつものぬいぐるみの熊を取り上げて眺めていた。私がバスケットの中から犬のぬいぐるみを取り出してそれをバスケットの横に犬らしい格好に四足で立たせると、彼は自分の熊のぬいぐるみを私に渡す。私はそれを犬の隣に置く。彼は次のぬいぐるみをバスケットから出してまた私に渡す、という調子で5つのぬいぐるみを並べて置くことになった。その間ずっと二人とも無言。
言葉を使わずに遊ぶのは楽しい。手話だったらどんな感じかなとふと思った。
040206(金曜)
民主党の大統領選挙有力候補になっているケリー上院議員は、なんか陰気な顔しているので好きでなかったが、ベトナム戦争に従軍して危険を冒して戦友の命を助け、戦後は反戦運動家として議会でも証言したという話を聞いて、ひいきにしたくなってきた。選挙戦略的にも、戦争がどんなものか知っているというのは有権者の信頼を勝ち得るために有利だろう。
040205(木曜)
リビアの核兵器断念は、アメリカ勢力圏に取り込まれていない国家の方針として興味深い。アメリカのイラク攻撃に恐れをなしてリビアが屈服したという説をよく聞くが、イラクは兵器査察を受諾し、しかも実際に大量破壊兵器を持っていないのに攻撃されたのだから、これは理由にならない。イラクが本当に核兵器を持っていたら多分アメリカもそう簡単に攻撃しなかっただろうと考える方が自然だ。
アメリカは以前にイラクに武器を供給してイランと戦わせ、両国を疲弊させた。このように、部族や国同士が対立しているところに武器を供与したり、売りつけたりして、両方が弱るのを待つというやり方は、ここ数百年間ヨーロッパ人が世界中を侵略するときの基本的なパターンである。核兵器の技術はパキスタンから流出したというが、「田中宇の国際ニュース解説」によるとアメリカはパキスタンに強い指導力を行使しうるのだから、この流出はアメリカの黙認の元に行われていた可能性が高いということだ(http://tanakanews.com/e0127nuke.htm)。
リビアは「もうその手は食わないぞ」という決意を表明したのではないだろうか。
040204(水曜)
幸せな結婚生活を送っていた50歳の男がある日農場でやぎを見て、恋に落ちてしまう、という芝居を見た。妻や友人や息子がいきどおるのと、本人が自分のやぎへの愛の深さを訴えるのがかみ合わないのがおかしい。動物と性的関係を結ぶことは聖書でもきびしく禁じられているが、それだけよくあったということだろう。人間の世界に疲れて動物に憩いを求めるのは自然なことだろうが、性的に惹かれるというのはかなり変わっている。でもそう感じるのなら他人がとやかく言うような問題ではない。ただ、現代社会は人間だけを特別に厚く保護して他の動物の命は基本的に価値を認められていないから、動物との恋愛は昔他民族や奴隷との恋愛が社会問題になったのと同様なインパクトを持っている。
040203(火曜)
父のずっと昔の知り合いに連絡をとりたくなって、いろいろ試みていたのだが、ふとYAHOOの電話帳を試してみたら、同名の人が2人だけみつかった。そして最初にかけてみた相手がなんとどんぴしゃで、本人の奥さんが電話に出た。
インターネットというのはこういうとき便利だなあ。
040202(月曜)
青少年が抗欝剤を服用し始めてすぐに自殺したり暴力行為に及んだりするケースが多いので、イギリスでは一部の抗欝剤の青少年への使用を止めることに下らしい。PROZAC系の抗欝剤は比較的副作用が軽いということもあって、アメリカではほとんど濫用されているという感じがある。テレビのコマーシャルにもしょっちゅう抗欝剤の宣伝が出てくる。処方箋がないと入手できないものでも宣伝するのは、患者が医者に「コマーシャルで見たあの薬を処方してくれ」と頼むのを期待してのことだろう。薬で始末がつくのなら、生活の仕方を変えたりする必要がないから多くの人は落ち込めば即薬、というパターンになっていくようだ。しかし、短期的には安価であっても、長期的にこうした脳に直接、しかも特異的に作用する薬を飲み続けてなんの副作用もないとは考えにくい。
とはいえ、多くの文明が酒を使って人々の和合を図ったように、抗欝剤も現代文明に生きる人間には必要なものなのかもしれない。
040201(日曜)
UUA(ユニタリアンユニバーサリスト教会の全国組織)の北西部支部の人が、これからのうちの教会の方向性について示唆に富む説教をしていた。UUAから見ると、我々が大きくなってもらわなければ困るということらしい。
うちの教会として何を看板にするかを明確にせよ、ということも言われた。なるほどと思う。外から見たら方針のはっきりしている教会の方が加わりやすいだろう。といってもそれはたとえば私や女房にはあてはまらない。私たちはなんとなく雰囲気がいいとか、おもしろい人たちがいるとかいう理由で参加したのだ。それに、UUだからかなり規格外の人間でも受け入れるだろうということもあった。そういう意味では、旗色を鮮明にすることはメンバーを減らす結果になるような気もする。
040131(土曜)
落ち込んでいるとき、友達と話すことで元気になっていく人と、静かなときを過ごすことで立ち直っていく人がいる。僕は後者なのだが、静かなときでも、たとえば禅センターの仲間と一緒に坐る方が、一人で坐るよりもいい。これは町の雑踏が妙に心地よいのと似ているかな。
040130(金曜)
感情をあらわにしないという伝統は日本だけでなく、北欧のフィンランドやイギリスにもあるようだ。イタリヤみたいに、大声で怒鳴りあうような社会もあるから、感情の抑圧が社会存立の絶対条件であるわけではない。むしろ文明の歴史が長いほど、人々は怒鳴りあいつつも社会を維持する知恵を獲得していくのかもしれない。
040129(木曜)
自分は何が欲しいかは自明なことだという仮定が現代社会にはある。自己というはっきりとした存在があって、それが何を望むかもはっきりしているという仮定だ。これが仮定というよりは義務になっている。自分が何が欲しいのか言えないものは社会人として失格であるという烙印が押される。だから、多くの人は「自分はあれが欲しい、これが欲しい」とあたかも自分のことを100%理解しているかのように「自己主張」する。
040128(水曜)
役立たずが必要、なんて苦しいことを昨日書いてしまった。
自分の中に何をやりたがる傾向があるかを知るのはけっこう難しい。言葉が行動を表さず、むしろ他人に自分の行動を縛られるのを防ぐための煙幕になっているからだ。そうでない人もいるんだろうが、私の場合は自分の思考そのものが煙幕になっている感じが強い。
そこで、ストレートに「自分は何がしたいか、何に価値を置くか?」とは問わずに、タロットカードを引いて、それを解釈するときにふっと出てくる感じを参考にする、という実験をここ二週間ほどやっている。わりといい感触である。
040127(火曜)
12月初旬の臘八接心で「読み書きなし」を一週間やったら、帰ってからもなんだか書く勢いがなくなって、そのままこの日記も止まっていた。
でもそろそろまた考えたことを書きたくなってきた。今「華氏451度」というレイ・ブラッドベリの半世紀前の傑作を英語で読んでいる。本は読まれなくなっただけでなく、禁止されていて、Firemanは昔は火を消すのが仕事だったのに今は隠された本に灯油をかけて燃やすのが仕事。家では居間の三方がテレビ画面になっていて、夜も耳に小さなイヤホンをつけて何かずっと聞いている妻。なんだか居間のAV機器の氾濫を予想していたみたいだ。ただ彼が予想したようにAV機器が人間を非人間的にしたかどうかはわからない。
いろんなことをしたがる人たちの多い世の中で、僕みたいにただぼうっと眺めているが本分という類はちょっと居心地が悪いということはある。自分のであれ他人のであれ、有用な道具になるのはしんどい。今日の文明は「する」ことと「変える」ことが高い価値をもっている。何か役に立つことをしないと存在価値がないような気持ちにさせられる。しかし、役立たずというのも世の中には必要なのだ。