オレゴン日記--200379

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030930(火曜)

 この3ヶ月間で最大の収穫は、レターサイズの古紙を4つに切った13cm x 10cmのメモを12枚つづりにしてどこへでも持ち歩き、思いついたことを書き留める習慣ができたことだ。枕元にもこれを置き、夢とか思い付きを書き留める。なんども頭に思い浮かべるのにどこにも書かないことはなんか中途半端な行為を生み出す。とにかく書くというのが結構できるようになった。なにも起承転結はなくていい。後で思い出すよすがになればいいのだ。たいていはあまりいじらすにそのまま手書きの日記に書き写すが、書き写すときに又印象が新鮮になるのもいいことだ。


030929(月曜)

 言葉と行動というテーマで7月から書いている。10月からはそれを展開して、日常の身の回りのものや欲しいものについて書いてみたい。服とか、バックパックとか、靴とか、ボールペンとか、いつも使っているものについて、なぜ使っているか、どういうところが好きでどういうところが嫌いかなどを書いてみるつもり。

 行動というのは周囲の事物との相互作用だから、いつも近くにあるものについて書くことは行動と言葉の調和へのステップだと思うのだ。さらに、今は持っていないが、欲しいもの、あったらいいなとよく思うものについても書き、ときにはそれに基づいて特定のものを入手してみようかと思っている。


030928(日曜)

 やることが多くてあせってくると、頭の中で「あれしなきゃこれもしなきゃ」と考えているだけで一度立ち止まって書いてみるということをしなくなる。ところが、脳の中のある部分は書くという動作によって始めて何かを認識するということが言われている。頭の中で自分に言っていることは幹夫のこの部分には伝わらないのだ。だから、書く事で自分がより統一された体制で行動に臨むことが可能になる。あせったときほど、一度メモに書き留めてみる、というのが大事だ。そのときは「こんなに強く感じているんだから、後でもっと時間のあるときに思い出して書き留めればいい」と思うが、坐禅の経験で明らかなように、どんなに強い思いでも5分も経てば後も残さず消えてしまう。また戻ってくるということはあるが、それがいつになるか、またどのような変容を経てまた現れてくるのかは予想しがたい。憶えておくべきだと思ったらすぐメモするに越したことはない。


030926(金曜)

 同じ仕事でも、始めたときはいろいろ不慣れでうまくいかず、そのうちだんだん調子が出てきて、いくらでも続けていられるような気がしてくる。ピークといってもいい。そしてそのうち疲れを意識しだし、やっと仕上げると、今度はしばらくその仕事は全然やりたくなくなる。これが谷底だ。たとえば「翻訳」というと言葉としては一つだが、どのフェーズに自分がいるかによってこの同じ言葉がまったく別のひびきを持ってくる。しかしまた、そのときどきでまったく異なって感じる対象に対して「翻訳」という同じ言葉を使うことで社会的動物である人間というものが成立するということも真実だ。そのとき私が何を感じたにせよ、クライエントからすれば私が「翻訳」をするということが大事なのだ。


030925(木曜)

 仕事の締め切りに間に合わすのにふうふう言っている。請け負った当初はできるつもりでも、思ったより時間がかかって後で困るということはある。これも行動を言葉に合わせることのむずかしさの例だ。でも未来の行動をある程度言葉でてなずけないと社会は成り立たない。


030924(水曜)

 行動予定を忘れないように、カレンダーに書き込んでおいたのに、忘れたという例が昨日今日と連発した。土曜から火曜まで風邪気味で朦朧としていた上に土日はサッカーやお客さんで忙しく、月火は通訳で忙しかった。今週は翻訳のプレッシャーもいつになく強くなっている。いろいろ心配事があると頭の方で自動的に一部の記憶を抑圧してしまうようだ。


030923(火曜) うちのUU教会が同性愛者を歓迎するということを公式的に言うかどうかで役員会が話し合った。私の立場は、そういうことをいうのなら内容が伴わなければならない、ということだ。我々の借りている場所はメソジスト教会なので、メソジストの方針で同性愛の結婚は教会ではできないことになっている。こういう状態で同性愛者を歓迎すると言っても言動不一致ではないか。ただし、歓迎するという意思表示のほうが先だという考え方もある。つまりここでも思考が先か行動が先かというテーマがでてきていて、私はやはり行動が先、というほうに安心感があるわけだ。


030921(日曜)

 最近の映画でアルマゲドン(小惑星が地球に衝突するのを防ぐ話)とかThe Core(地球の外核の流れが止まって大災厄が起こるのを防ぐ話)では、昔のこういう映画につきものの「裏切り者(あるいは敵の回し者)」が出てこなくて、登場人物は基本的にみんな正直である。つまり言葉と行動が一致する者同士が協力して困難な仕事をやりとげるというまっすぐな話なのだ。視聴者の間でも、どこかの国の悪者をやっつけるという話だけでは納得しなくなっているのかな。


030920(土曜)

 サッカー見物やお客さんで、ただ受動的に動き回っていて言葉と行動の連結も糸瓜もない一日だった。メモに書き込むことでかろうじて思いついた印象を残したくらい。


030919(金曜)

 言葉の行動の間のギャップを縮めるには、多分簡単にできることから、「これから歯を磨くぞ」と宣言してから磨くとか、あるいはいつもやることでも「さあこれからウェブ日記を書くぞ」とか言ってから書くとか、いうふうな試みをしてはどうかな。ユダヤ教でも永平寺でも、日常の所作のそれぞれに祈りの言葉があるが、そういうのも言葉と行動を調和させる一環なのかも知れぬ。


030918(木曜)

 昨日のおまじないが利いたのか、リストにあることはすべてやった。やはりなんらかの暗示にはなるようだ。

 明日は、風邪を引いているので無理しない; 特許の翻訳を途切れないようにがんばる; 「復讐」を書き進める; 中国禅のレポートを書き進める; プロバイダに支払いの問い合わせ; サラへのノートに書き込み; かとうさんにメール; くらいか。


030917(水曜)

 明日何をやるかを考えてみる。金曜日は会えないことを某氏に連絡する; 特許の翻訳を続ける; 「復讐」を書き進める; レタスの苗を植える; こおろぎを買ってきてタランチュラととかげに与える; まあこんなところだ。

 毎日やるのは、坐禅; メモに書いたことを手書き日記に移す; このウェブに気を書く; Eメール読んで応答; スクワット背筋運動+ストレッチ。

 前もって言葉を使うことで毎日の行動に影響を与えられるか?


030916(火曜)

 これまでの半生では「自分はこれからこういうことをするぞ!」と宣言してするのはひどく苦手で、実際計画してやったことが実現したためしがない。しかし仕事では「やります」といえばかなり無理してもやる。ただ自分で言い出すというのがひどく億劫だ。


030915(月曜) Top dog/Under dogという芝居を見た。黒人の兄と弟の悲喜劇。弟は感情的になっていろいろ思いのたけを吐き出すうちにますます激昂して取り返しのつかないことをしてしまう。言葉にはこのように人をけしかけてある種の行動に導く働きがある。

 意識的にやれば自分自身をけしかけて特定の行動をするように仕向ける事だってできそうだ。「これから3分間翻訳をするぞ!」とか。


030914(日曜)

 思考は次から次へと連鎖反応でいくらでも増殖していくが、現実との接触なしにこの増殖が続くと、まさに机上の空論になる。といって、現実べったりでは思考は成立しない。明確な思考にならないことは他人に伝えられないから、協力の果実を得ることができなくなる。現実と思考とを結びつける方法論として、自然科学は優れているが、その他にも方法はある。タロットや易は我々が現実と言葉を結びつけるためのフォーカスとして作用する。本来あまりに多様で言葉にならない現実のうち、1枚のタロットカードの絵や易の卦の言葉に共鳴する部分だけがくっきり浮かび上がってくる。それはすべてを映すものではないが、少なくとも現実の一部をはっきりした言葉で表すという効能がある。科学の効能も基本的にはこれである。


030913(土曜)

 本当に何かを信じているかどうかは、行動によって計られる。言葉はいくらでも抽象の空を飛ぶことができるが、行動は具体の糸にからめとられる。言葉の世界で傑作を残した人々はしばしば実生活ではひどく苦しんだ。苦しんだからこそ言葉で世界を作ってそこに住もうとしたのだ。これは単なる逃避ではない。ある程度これをしない人間は実生活もまともにできなくなる。抽象と具体の間を軽々と行き来することによってのみ両方の世界が充実してくる。


030912(金曜)

 世界や人間を理解しようとするとき、ある教典に沿って解釈していくやり方は、その経典の恣意性に影響される欠点を持っているが、その経典を遵奉する人々の間では共通の理解が得られ、多くの先人の知恵に学ぶことができる点が優れている。

 なんの前提もなく理性だけで理解しようとするやり方は、不偏不党である点が優れているが、逆に自分の考え方の癖が見えにくいために、つまらぬ偏見に何十年もとらわれるという落とし穴もある。理性といってもいろいろな型で鍛えないと小さく固まってしまう。


030910(水曜)

 教会の役員会で考えた。一見文句のないアイデアをみんなに提示して、賛成多数でやることにする。ところが殆ど誰も実際には乗ってこない。こういうことが僕が役員に加わる前に何度かあった。言葉を頭だけで受け入れても体がそういうふうに動かないという例だろう。


030909(火曜)

 カメラ、けっこういい写真が簡単に撮れてすぐコンピュータで見られるのでやっぱり買ってよかったかなと思い始めた。


030908(月曜)

 9/3にカメラを買うと書いたが、実際今日買った。長いこと考えていたことをやったから満足かというと、なんだかんだと気になることだらけ。こうすればこうなる、というふうに頭で考えていることは、実際に手足を動かしてみるとあっさり崩壊してしまったり、少なくとも大修正を加える必要があることが多い。その不快さを思って行動に移さないこともある。


030907(日曜) ばたばたしていて二日も書かなかった。このごろいつもレターサイズの紙を四分割したメモ用紙を12枚束ねてホッチキスで留めて持ち歩いている。思いついたことを書くためだ。夜は枕元に置いて、夢を書き付けたりする。朝書いたことを夜読むとときどきまったく記憶がなくて、まるで他人が書いたものを読んでるような気になることがある。自己の連続性というのは怪しいものだとつくづく思う。


030904(木曜) 思考を制御しようとすることは、本棚を整理するのと似ているかもしれない。あるアイデアに基づいて思考体系を作ろうとすると、それではうまくいかない部分が出てきて、そのうちそのアイデア自体に飽きてきてうやむやになる。本も、ある分類法に基づいて分けようとすると、実はいろんな分類法があってそれらのうちの一つがそのときどきで魅力的に見え、結局どの分類法も完遂できない。しかし、結果としてすっきりした体系にはならなくても、そういう努力をした後は自分の持っている思考や本についてこれまでよりずっと深く広く見通しが効くようになる。


030903(水曜)

 長いこと考えていたことには何か形を与える必要がある。そうでないと意識の裏側でその思考がいたずらをする。私は長いことデジタルカメラを買うことを考えていたからとにかく買うことにした。天体望遠鏡についても何か形にする必要があるがまだこれといったことはしていない。


030902(火曜)

 言葉で言われたことをわりとそのまま受け入れてしまい、その通りにならないと動揺するというところが私にはある。言葉と行動の間の関係が硬直しているともいえる。だからこそ言葉と行動を切り離したままにしていたくなる。


030901(月曜)

 1分が持続力の限度と昨日書いたが、もちろん1分ではできないことも私はやっている。無理に長時間持続しようとすればかえって疲れがたまって効率が低下するから、実際にはいろいろ気を散らせて、ウェブサーフィングしながら仕事したりしている。これをたとえば意識的に1分毎に15秒間目をつぶって周囲の音と呼吸に気を戻すということも可能かなと思う。疲れても無理に押すという癖がついているために、自分の状態に鈍感になっているということはある。注意力のかげりをすばやく察知して数秒間休むというのが長続きの素かもしれない。そもそも他のことに気が散り始めるというのは疲れのサインだろう。


030831(日曜)

 同じ事を1分以上していると疲れてしまう、というのが私の特徴だ。何か人に説明していても、これくらい経つと調子が狂ってくる。肉体的にも、陸上なら400メートルまで、水泳なら無呼吸で35メートルくらいまでが限界。それ以上やってもちっとも面白くない。要するに一呼吸でできてしまうのが条件なのだ。

 皿洗いや掃除をしていても1分くらいやると別のことをしたくなる。トイレの掃除なんかも、ちょこっとどこかぬらしたトイレットペーパーで拭うという感じで、それを何回かやっているうちにトイレ全体がきれいになる。


030830(土曜)

 女房の友人の結婚式に出た。実に堂々と相手のことをべたべたと褒め上げる。私はこういうのが苦手で、ときどき女房に文句を言われる。ポジティブなことを思っていても、面と向かってそう言えるものではない、と私は思うが、女房の家族は電話の終わりに「アイラブユー」を付け加えるのを忘れない。

 私が行動の上で特に薄情だとは思わないが、言葉にするという点では大分基準を下回っている感じがする。この辺も言葉と行動が調和しないところか。ただ、書く方はわりと言いたい事が書けるので、このごろは女房へのメッセージ用のノートを決めてそれにときどき書き込んでいる。


030829(金曜)

 言葉と行動があんまり直結しすぎると、「ぶっ殺してやる」が殺人になったりする。私は言葉と行動がつながらなくて苦労しているが、つながりすぎる人たちは人生が劇的になりすぎて収拾がつかないのかもしれない。そうでなく美しく調和している感じの人も見かけるが。一連のテロとか国家の暴力行為を見ていると、言葉が極端な行動を生み出しているような気がする。正しいという字は一度止まると書く、とおっしゃった林泉寺の住職を思い出す。言葉で刺激されたときに、心を非言語の瞬間に一度曝してから行動するようにすれば、と思う。


030828(木曜)

 言葉の介入がないと行動が単調になる。仕事がたまってとにかくやらなきゃとコンピュータに向かっていると、だんだん頭がにぶくなってくる。休息するべきときにしないので、かえって効率が落ちる。

 こんなとき実は言葉の介入がないのではなく、「やらなきゃ」という言葉が呪文のように頭の中で繰り返されている。「休んだ方がいい」というような言葉でこれに対抗しようとすると言葉同士のせめぎあいになるので、むしろ周囲の無意味な音に注意するとか、呼吸に注意するとか、目の前のものを受容的に見るとか、カリカリした精神状態を鎮めるのが先決だ。


030827(水曜)

 小さきものの中に無限存在の声を聞く、という表現がある。昨日のすみれの俳句にもそんな気配がある。曹洞宗の開祖の一人である洞山禅師は無情説法という教えと格闘して悟りを開いたが、これもまた、知性や感情を持たないと見えるものでも実は常に教えを説いているのだというようなことである。


030826(火曜) 「山路来てなにやらゆかしすみれぐさ」とかいう芭蕉の俳句がある。この雰囲気は好きである。でもこれ、特に特定の行動とは結びつかない。すみれがきれいだから山道にどんどんすみれを植えましょうというような話ではない。山歩きを推奨しているわけでもない。日本人は日記を良く書くという。かくいう私ももう30年近く書き続けていると思う。日記もまた、特定の行動には結びつきにくい。今日あったことを書いたからといってそれが明日の行動を規定するわけではない。こうした言語表現にはどういう意味があるのだろうか?


030823(土曜)

 役員として初めて教会の会合に出席。行動派ではない自分がどういうことで貢献できるかなあと思いながらこれからの教会運営に関する議論を聞いていた。私は何か対立があるときのほうが何か言ってみたくなる。対立がなくても潜在的な反対意見を言葉にするのが自分の仕事かもしれないなと思う。もともと何がどうなってもそれほど気にしないのだから、プロセスを大事にしたい。


030822(金曜)

 人間同士の関係でも心の関係と体の関係というのがあるようだ。体というのは何も性的なことだけではない。近くにいるとだんだん体がリラックスしてきて気持ちいい感じになる。話が弾むというのは心と心の関係だろう。もちろん、体の相性が良ければ心の関係もできやすい。しかし、ベースが心である関係とベースが体である関係というのはどうもあるような気がする。


030821(木曜)

 UU教会の役員になったが、私は具体的に教会が何をするかについてはわりと受身だ。ただ、お互いにinspireできるような環境を整えられたら、とは思う。この教会は誰かがリーダーとしてどこかに引っ張ろうとすると強く抵抗したという歴史がある。どういう点で動き、どういう点では動かないかという判断が大事かなと思う。


030820(水曜)

 今度通訳で隣の州の町に行くことになった。こういうのは楽しみだ。自分でどこか特に行きたいところがあるから計画していくということはまずない。どんな場所にも何かしら面白いことはあるし、逆にここが特に行きたいというようなことは思いつかない。

 音に関しても、曲を選んで聞くよりも、環境音に耳を澄ましているだけで心が軽くなる。実際にどういう環境にいるかということよりも、その場その時に対する注意力の質が幸福度に大きく関係してくる。


030819(火曜)

 一つの事から触発されて別のことをやり、それにまた刺激されて、というふうにきりなくいろいろやっているとそのうち疲れるが、興奮していてうまく休めない。心と体の乖離もひどくなる。心はあせっても体はもういやがっているからだ。試みとして、笑える漫画をしばらく読んでから音と呼吸に注意を向けるようにしたら、比較的うまくリラックスできた。


030818(月曜)

 体も心も、相手に拘束されるのを嫌っているようなふしがある。特に一人でいると体と心がそれぞれ勝手にふるまっていてもあまり問題は起きない。社会生活となると言動のある程度の一致が要求される。だから私は社会から一歩引いた生活をしてきたのだろう。


030817(日曜)

 玉光先生に思考と行動の乖離のことを聞いてみた。体がやっていることから心が目をそむける瞬間を捉えよ、というのが彼女のアドバイス。

 たとえば、夜のエクササイズとストレッチングをやろうとしてリビングルームに行っても、たいてい気が変わってつまみ食いしたり、インターネットをやったりする。その間十分か二十分はなんだかぼーっとしている。結局いつかはエクササイズもストレッチングもやるのだが、この遅れは一体なんなのだろう。そんなに腹が減っているわけでもなく、インターネットで是非見たいものがあるわけでもないのに。これはどうも相撲の仕切りなおしのようなもので、ある程度の努力を要する活動に入るときには気持ちがそれに対応して締まっている必要があるのだが、それがゆるんでいるといったん中止して何か別の、気楽にできることをやってから再び試みる、そんな感じだ。


030816(土曜)

 昨日のような観察は後で読んでも面白いことが多いが、自分のやったことの記述は後になって読むとちっともおもしろくない。この辺が私の特徴らしい。心の動きを書いたものはけっこう楽しめる。体を動かしてやったことと言語表現は私にとって折り合いが悪いようだ。体は体で勝手に好きなことやり、心は心で勝手に好きなことを考え好きなものを見るというのが私の基本形らしい。


030815(金曜)

 2年近くナナフシを飼っているが、今日初めて卵が孵るのを見た。卵は灰茶色の目立たない植物の種みたいな感じで、長さ4ミリ、幅1ミリ、断面が長方形で、両端がややすぼまり、また長さ方向にやや反りがある。同じ色、形、サイズのものがたくさん地面に散らばっているので、前からあれが卵かなと思っていた。幼虫は卵の先っぽの穴からまず体側に脚をくっつけて長さ方向に出てきて、中脚がまず解放され、前脚と後脚は最後まで卵の中に残っていた。特に前脚は体の全長にわたって円弧状にたわんで先が卵の中に入っていた。幼虫が完全に出たあとも卵はほぼ無傷に見える。先端は穴があるのだろうが、よく見えない。

 ながながと書いたが、こういう観察は好きである。あまり手を加えず、なりゆきにまかせて気長に観察する。自分のやったことを書くのはどうも気が乗らない。


030814(木曜)

 いろんなことにある程度は興味があるが、学問にせよ技芸にせよ、スポーツにせよ、深いところまでは行ったことがない。飽きっぽさ、不器用さ、いろいろ原因はあるだろうが、なんにせよ深く達するには社会と何らかの強いつながりがなければならない。これまで蓄積された知恵を利用しないでは何事もそう深くは会得できないからだ。ゴッホみたいに一人だけで、誰の協力も得ずに自分の芸術を築いたように見える人もいるが、彼だって先人の絵に感動して勉強したのだ。


030813(水曜)

 日曜日のサッカー試合見物中に誰かがみつけてくれたカマキリをうちに持ち帰ってナナフシのテラリアムに入れた。けっこう気に入ってときどき眺めたりしていたが、このことについて何も書いていない。こういうことはよくある。なんか言葉にしにくかったりすると、とても興味を持ったことでも書かなかったりする。いろんなことを書けるだけの技量がないともいえるし、わけのわかることを書こうとするから、何かに興味を持ったときのやや混乱した気持ちを書くのは難しいとも言える。俳句的に流して書けばいいのかもしれない。「腹広のカマキリ一匹助手席に」


030812(火曜)

 やるべきことのリストとやりたいことのリストを朝作った。ある程度はやったが、ハリーポッターを読むのに一日の大半をすごした。


030811(月曜)

 毎日していることだが、言葉にはしないことがけっこうある。食事のしたく、皿洗い、つまみ食い、読書、庭の世話、虫の世話、ちらばった書き付けの整理。こういうことを言語化してみるのも、言葉と行動の調和に役立つかもしれない。

 たとえば庭の世話。しおたれたかぼちゃの葉を見ると、あ、そうかと思ってしばらく水をやったりする。まあ行き当たりばったりだ。いつのまにか雑草が生い茂って抜くのもおっくうになったりする。園芸ノートというのを作ってあるのだが、ここ数週間なにも記入していないと思う。黄色瓜は実がなりかけては枯れて落ち、ミニトマトはなんとか10個くらいの実をつけている。毎日一個くらいは取っているから通算数十個というところか。きゅうりは植物自体はとてもちいさいが、二つ目の実が20センチくらいになった。今年はブルーベリーが結構成って、23週間前は毎日20個くらい取って食べていた。


030810(日曜)

 social skillという英語は気配りという日本語に対応するのかもしれない。対人関係がぎこちない人というのはいる。そういう人はsocial skillがないというわけだ。でもそれはもともと社交から得るものが少ないからそれに必要な技能も発達しなかったのではないかと思える節もある。人を遠ざけたいから半分わざと気配りしないということもありそうだ。社会の方でもそういう人には残酷な面を見せる。


030809(土曜)

 世界を観察するだけで、変えようとしないのは単なる傍観だろうか。観察し、それを人に伝えることで何かが変わるかもしれない。そういう意味では観察者は世の中に参加している。


030805(火曜)

 今日はことのほかいろんなことをしちらかした。しかしこれがなかなかいい感じだったりする。書きたいと思っていたテーマでかなり書けたということもある。これはけっこう満足感がある。


030804(月曜)

 ロボットに夢中で何ヶ月も家に戻らず、やっと戻ったときは妻が去っていたという技術者の話を読んだ。こういうふうに、なにかはっきりとしたことに夢中になることで人生が形を取る人のことをうらやましく思うことがよくある。

 しかしはっきり言葉でいえないとはいえ私にもこだわりはある。それに形を与えることはできなくてもかまわない。猫だって一匹一匹テーマを持って生きている。


030801(金曜)

 私が何か思い切ったことをやるという場合、どうもそれを勧める人が好きだというのが一番強い理由のようだ。そのやること自体の是非はいくら考えても多分結論はでないだろう、7/24にも書いたように。何か通じるところがあると思える人がいるとその人を支点にして何かが起こる。


030731(金曜)

 なにが欲しい、というふうにはあまり思わない。持つということは重荷だから。そして持つということは一定の期間を意味するから。なにがしたいか、というのはある。多くの場合、ただ寝転がりたいというのが本音だったりする。


030729(水曜)

 旅行をしていると、普段より見込み違いが多くなる。そんな時、自分の判断の誤りを責めたり、相手が見込みどおり行動しないことに腹を立てたりすることはまあ自然なことだ。大事なのはそういう反応をしないということではなく、そういう反応をしながらも、今、ここ、という瞬間を忘れないことだ。


030728(月曜)

 人と話していると、7/25にも書いたが、環境音や呼吸への気づきがなくなって、相手の顔とか言葉や思考に注意が集中してしまい、気がつくとひどくいやな感じがしていることがある。特に何か話したいと思っている相手だと、この罠に落ち込んで抜けられなくなる。大事なのは相手がなにを思っているかではなくて、自分が自分とつながっているかどうか、なのだということを肝に銘じることだ。


030727(日曜)

 集団が組織として機能するために、人間が以前から持っていた習性が微妙に歪曲されて使われている、というテーマで本を書こうかなとずっと思っているが、毎日なんとなく思い浮かべるだけでメモを書くこともしないでいる。これはどういうことなのか?


030726(土曜)

 フリスビーサッカーというのをやって気持ちよく体を動かした。ただ、私は体が動くと頭はお留守になる。闘争心と計算とがどうも両立しない。動きの気持ちよさがすべてになる。考えることなんか何もない。


030725(金曜)

 思いがけない人と話が弾むのは本当に楽しい。しかしそこで次も楽しい会話ができるだろうとか、どんどんその会話を続けようとかいう欲が出てくると気持ちがずれてくる。人と話していて、思考の迷路に入らないようにするのはとてもむずかしい。


030724(木曜)

 将来の予定が2つぶつかってどちらかを選ばなければならないという場合、ちょっと考えると合理的にどちらかを選べそうなものだが、しかしたとえばサッカーのチームの懇親会とユニタリアン教会で禅の接心を指導する人との夕食会を比べてどっちが重要かなんていうことは理屈ではどうにもならない。互いに範疇が違うのだから。今眼前にない将来のことをいろいろ想像して、自分はどっちをより楽しめるだろうかとか考えているとだんだん暗い気持ちになってくる。焦点が現在でなくて未来になっているからだ。これまでの経験からも、最初に迷ったら、その後いくら考えてもやっぱり迷うのだ。迷うくらいならだいたいどっちをやってもそんなに変わりはないと思って間違いない。だから、迷う時間を短くすることに焦点を置く方が賢いだろう。


030723(水曜) 運転は好きではない。ちょっとハンドルを切り間違えたら人死にが出るような状況がえんえんと続くという状態が楽しめるという神経は僕にはわからない。ただ、一瞬のすきが大惨事を招くと知っているから自然に集中するということはある。

 集中と幸福というのはどうも深い関係がありそうだ。どちらも今、この瞬間にしか起こりえないから。この一瞬を意識できればそれだけで幸福だといえる。


030722(火曜) 義母が来ている。彼女は「私は○○した。なぜなら□□だからだ。」という調子で自分の行動を言葉で説明する。言葉と行動を70年間結び付けてきた強さを聞いていて感じる。それと同時に「これは僕の住んでいる世界ではないな」とも思う。どこが違うのか、といえば私の場合外の世界を変えようという意図がない。アメリカ的な見方からすればそんな人間は生きている甲斐がないのかもしれない。しかしそれでもやっぱり生きているし、生きているからにはよりよく生きたいという欲もある。私の場合、周囲の状況を改善することよりも自分の注意力をどこに向けるかということを重要視する傾向がある。その方が、自分の内部で感じる状態への影響が大きいからだ。こういうのは独りよがりなのかもしれないが、究極的に自分が感じることのほかに幸福の基準があるだろうか? そして、フィーリングというのは外部の状況を100%鏡のように映しはしないのだ。

 私が幸福であるということは私の周囲の人間にも影響を与えるのだから、たかが私一人の感じだから社会的に意味がないなどとはいえない。ある人が幸福を感じ、持続させる技術を学ばなかったために自分自身と周囲に大きな災厄をもたらすという例はいくらでもありそうな気がする。


030720(日曜) 日米文化を比較すると、日本の方は言葉と行動の間の関係があいまいになっている。言葉はむしろ人間関係の潤滑化のために用いられ、思考は思考のままとどまり手足には届かない。行動の型は「からだで」おぼえる。アメリカの方は考えたことをすぐ実行に移す傾向が強い。行動は言葉によって御するものなのだ。


030719(土曜)

 コンピュータに向かったとたんに何か食べたくなったり、ナナフシの餌のことが気になったりするという現象が良く起こる。こういうときは特に抵抗せずに、しかし夢遊病みたいでなくあくまで周囲の音と呼吸に意識しながら流れに従うのが良さそう。


030718(金曜)

 蔵前仁一氏がアジア旅行者の長逗留を「沈没」と表現しているが、今日の私は自分の家で沈没していた。氏の本を読んだり、ハリーポッターの第5巻を読んだり、翻訳の合間はゆっくりと過ごした。私がすきでよく憶えている時間というのはこういうゆったりした時間だ。特に内容はなくてもいい。夏の日に照らされた田んぼ道とか、大きくて何の家具もない明るい部屋とか、砂漠なんかがイメージとしてはいい。


030717(木曜) 昨日と今日はメモ取りもあまりしていない。しかし今日はそれほど思考と行動の乖離は感じなかった。こういうときもある。音と呼吸を感じられる限りなんとかなるという気はする。


030716(水曜)

 息子のサッカー練習。手伝おうかなと思いつつだまって見ていた。こういう状態に気づいたら、まず周囲の音に注意するとか呼吸を丹田に持ってくるとかするのが良さそうだ。思っていることとしていることの乖離に注目するとどちらにしても不自然になる。


030715(火曜)

 フロントポーチの左側の茂みが大分伸びてきた。切った方がいいだろうなと思いつつ、そういえば自分は伸びているものを切るということをしないなと気が付いた。というか外の世界に対して観察者の態度を取り、自ら手を加えるということをしないのが私の基本的な姿勢だ。

 私自身、親にこうしろああしろと言われずに育ったので、放っておかれても不安は感じない。現行の権威との接触がないから独立性が高く、みんなが熱くなっていても比較的冷静だったりする。影響されにくいということはしかし学ぶこともあまりないということだ。大局的に見て自分のこうした性質がこれから先変化するとは思わない。

 7/10に口ばっかりで行動が伴わないという自己批判が出たが、世界を特定の方向に変えようとする意志をもともと持たずに育ったのだから、これは当然だ。


030714(月曜) メモを11項目に限定するというのは大事らしい。この方がずっと印象が鮮明になる。

 一生の大目的みたいのがあるといいなあとよく思うのだが、そういうふうに「決め打ち」したがるのは実は怠惰なのかもしれない。一瞬一瞬を積み重ねる以外には生きようはない。積み重なるというのも、積み重なったものはもう自分とは別のものだと思い定めないと重荷になる。

 メモ1枚をばかにせず、ということか。


030713(日曜)

 くたびれてくると、惰性でどんどん翻訳したり、とにかくいろいろやることはまだできるが、今必要なことが何かとかいう戦略的な思考が衰えてしまう。ノートやメモを書こうとしても頭が働かなくなる。まあこうなったら休むのが一番いいのだろうが。

 メモ用紙を持ち運んで、感じたことを書き(1枚に1項目)、それを後で日記に移すというのはそのとき感じたことを忘れないために役立つ。


030712(土曜)

 元太のサッカー2試合もあって忙しい一日。翻訳をやり、食事を作ったりしたほかはたいしたことできず。発芽装置を片付けたかったので少し手をつけた程度。サッカーは飛び入りではないが、どれだけ時間がかかるかをあまり事前に考えていなかった。


030711(金曜)

 やりたいこと、やったこと、飛び入りでやらざるを得なかったこと、などを日記に書き、昼頃一度チェックしてさらに付け足すということをやってみた。これにやりたかったけどできなくて残念だったことを加えればなかなかいい感じになるかもしれない。こうするとわりと自然にやりたかったことができることがある。


030710(木曜)

 つまるところ口ばっかり達者で行動が伴わないというのが問題だ。これまでにもいろいろ工夫はしてみたが、いずれもそれほどの成果を上げていない。といってもちろん全然行動しないわけではなく、かなり突拍子もないことを実行してしまったこともこれまでの人生で何回かある。

 ただ日常生活ではやはり行き当たりばったりという感が否めない。今回は、行動と言葉との乖離をとりあえず認めてしまうことにより、フラストレーションを低くして、そこから何ができるかを考え、かつ行動してみようと思っている。いろいろ考えている人格と、行動している人格が互いにあまり理解しあっていない、二重人格に近いような状況があるのではないかというのが基本的な仮定である。

 行動者は思考者の言っていることをあまり理解していないようだ。思考者の方も実はたとえば今日の行動についてあまりよく知らなかったりする。


030709(水曜)

 子供の頃から、何かを計画通りに実行しようとして途中で挫折ということが多かった。これは行動を言葉に従わせようとした例だ。一方、20歳ごろから日記はわりと続けて書いている。こっちは過去の行動を記述していくものだ。といっても考えたことをただ書き留めることも多い。


030708(火曜)

 2週間ほど日本に行ってきた。その間気になっていたのが、言葉と行動の連結ということ。たとえば部屋の整理というのは言葉のロジックに従って手を動かしてそのロジックを現実世界で実現することだ。日記というのは行動を言葉にすることだともいえる。この辺のことをテーマに次の3ヶ月間この日記を書いていこうと思う。