オレゴン日記---2003年4月〜6月

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[日記目次]

 

メインテーマは「禅の修業」


030625(水曜)

 この3ヶ月は禅関係の記述に絞った。もう7年もやっているのだから、と思ったが、やってみるとあまりたいしたことは書けなかった。なんかわかったような気はしても、書くとなると話が違う。7月からは何をやろうかと思案している。


030624(火曜)

 聖書という具体的な書物を中心として人々を束ねていくキリスト教のやり方は、禅のように慎重に聖なるものへの具体的な言及を避けて師弟関係で伝えていくのと対照的である。

 言葉を元に行為を作り出していく西欧の文化は「みようみまね」を重んじる日本人からみると「考えすぎ」みたいだが、西洋人は考えが行動に直結するからそれでいいのだ。


030623(月曜)

 周囲の音に注意を向けることとと呼吸を意識して腹に誘導することは坐禅でなく日常生活でもできる。皿洗いとかルーチン的な翻訳とかなら坐禅の延長にできるはずだ、ということでこのところ試している。坐禅中だってしょっちゅう「落ちて」妄想に耽ったりしているのだから、逆に日常的な動作の中に坐禅を持ち込むことだって可能だ。


030622(日曜)

 Interfaithの会合があって、香厳が仏教における「That which is greater」の話をした。仏教でも超越的な何かを崇敬するが、仏教の力点はそれが我々にとって知りえないものであるということなので、どんなものであるかについてはあまり語らない。キリスト教が聖書によって神の意図を具体的に述べることに僕が抵抗を感じるのはこの辺に理由がありそうだ。神の意図がそんなに人間にわかる言葉で書き表せるとは思えない。


030621(土曜)

 疲れていると考えることが暗い方へ暗い方へと流れやすい。そして、ちゃんと考えないといけないという強迫観念が強くなってくる。でも周囲の音と呼吸に注意を向ければ、特に何も考えなくても今そのままの状態で安んじることができる。簡単なトリックだが、思い出せばいつも役に立つ。


030620(金曜)

 禅のテキストに出てくる修行者は全て禅僧であり、在俗のまま修行しようとしている人間にとってはそのままでは参考にならない部分もある。アメリカで出家して修行している雲水でも、「全然寝なかったとか、すごい断食をしたとか言う話は自分は無視するようにしている」と言っていた。法華経は2,3世紀ごろの出家者と在家者の間の対立を止揚するために書かれたという説がある。今日のアメリカでは、そして多分日本でも、在家の修行のモデルがこれから出てくるのだろう。


030619(木曜)

 いやーな気持ちにはなりたくない、とか思うと、それがしこりになる。いやな気分になったときに余計がっかりする原因にもなる。お釈迦様でも肉体的な苦痛は感じたが、そこから「苦」を作り出さなかった。


030618(水曜)

 キリスト教というのは、信じがたいことを信じることから修行が始まる。禅はまず坐るという恐ろしく日常的なことから修行が始まる。しかしキリスト教にも日ごろの地道な実践があり、禅でも法華経のような荒唐無稽とも見えるお経を重要視する。


030617(火曜)

 自我の感覚は何かぎゅっと固く縮んだものである。未来への心配、過去への悔い、も自我感覚の特徴だ。自分はやるべきことをやっていないとか、さぼっているとかいう感じも怪しい。道元禅師は「批判するな」とあっさり断言する。それは他人を批判するのでも自分を批判するのでも同じことだ。


030616(月曜)

 ごくたまに、眠りから覚めたときに自分が誰だかわからなかったことがある。ちょっととまどうが、同時に実に何か広大な感じがあった。そして、常日頃いかにちまちまと「自分はこうこういう人間だ、こういうことをするがああいうことはしない、できない」と寸秒も止まらずに「自己定義」を続けているかがわかった。自分が誰だかわからないと、こういう自己定義をしようにもできないので心が解放される。このときの心は私だけの心ではない、なぜなら私という感覚そのものがお留守になっているから。


030615(日曜)

 香厳先生と参禅。誤って人や動物を傷つけてしまったり、苦しんでいる者を助けることができないと感じたりすると、感情的に距離をおいてしまうという自分の傾向について尋ねた。香厳「死にそうな病人の枕もとに僧として付き添うとき、死からその人を救うことはできなくても、そこに一緒にいるというだけで大きな助けになる。」

 この「一緒にいる」というのは物理的に近くにいるというだけではない。感情的な同調も含んでいる。間近にいたって気持ちが閉じていれば一緒にいたことにならない。


030614(土曜)

 犬が前足のつま先を車に轢かれたのを目撃した。タイヤの下から足を引き抜こうともがき、車がバックしてからやっと自由になったが、情けない鳴き声をヒンヒンと繰り返す。運転者がかわいそうだなと思った。彼の側からは犬の動きは見えなかっただろうし、彼は信号が変わったから前進しただけなのだ。こういうときどんな行動を取ればいいのか、想像しただけで緊張した。治療費は誰が払うのか。警察を呼ぶべきなのか。ただ車を運転しているというだけで実にややこしい状況に巻き込まれてしまう。

 私の中で、人との接触が最悪の結果に終わるというイメージがこのところ強い。物言えば唇寒し。自我の防衛警報が鳴り続けて、身動きができなくなる。そんな自分が情けなくもある。こういう仮定の場合に自分がどう行動すべきかなんていうことを考えるより、こんなときこそ今この瞬間に注意を集中するべきなのだろう。腹にじっくり息を入れて。周囲の物音にじっと耳を澄ませて。


030613(金曜)

 禅の修業に競争心は邪魔者か、と5/23に書いたが、息子がこれまでよりもシリアスなサッカーチームに入ったので、コーチや親から競争心の大切さとかを聞くようになり、それに対して応答しなければならないことになりそうだ。


030612(木曜)

 インドの瞑想者への手引きのような小冊子に、「権力を求めよ」と書かれていたのが印象に残っている。禅を修行することは世捨て人になることではないのだ。人との競争にも積極的に参加していきつつ修行していくということだ。自分の好きなことを世の中がまったく認めないという状況もあり、たとえばゴッホなんかそうだが、彼でも世間を無視していたわけではなく、彼としては自分が最良と信じる芸術を世間に提供しようとしていたのであって、世間の方が彼を無視したのだ。Emily Dickinsonみたいに極端な引きこもり状態で後半生を過ごし、死後に原稿が発見されるなどという例もあるが、これだって彼女は世の中に、あるいは特定の誰かに対して信号を発信することをあきらめなかった。引き出しに入れた原稿を処分しなかったのはやはり読んで欲しいと思ったからだろう。人によって世間への露出の程度と様式は異なるにしても、なんらかの意味で世間と切り結ぶところをもつべきだし、第一そういう因縁が全然ない人は生まれてくるだけの業もないだろう。


030611(水曜)

 誰かが自分につらく当たったとき、つい「自分はなにかこの人に悪いことをしたのかな」と思い、怒りが自分に向けられていると感じてこちらもかたくなになる。でも、多くの場合その人はすでに怒りのぶつけ先を無意識に探していて、私はたまたま見つかった標的だったりする。自分が悪いんじゃないかという一見殊勝な考え方もやはり「我」であることには違いない。


030610(火曜)

 疲れていると、ちょっとした障害があってもがっくり来て過剰に反応しやすい。ビデオを返すのが遅かったことがわかり、3ドルの罰金を払わされたとき、そんな感じだった。こういうとき「なんでこんなことになったのか」とか考え始めると余計だめだ。腹にじっくり息を落として呼吸に集中すると少しはいい。


030609(月曜)

 新しい人間工学設計のキーボードを試している。慣れたものを使う方が効率が高いともいえるが、ちょっと違ったものに慣れるということが結構新鮮だったりする。禅の修業でも、香厳先生はときどき朝課のやり方を変えたりして、「慣れてしまわないようにね」と言う。

 私はつい慣れたものにこだわって自分のやり方を変えない癖がある。しかし時には、ただ変えてみるだけで、今までのものよりも特に良いものでなくてもはっと目が醒めることがある。


030608(日曜)

 肉体的な疲労がたまるとつい不親切な言葉や口調が出て人といがみあったりする。お前のせいだ、と言われると、つい、そっちだって、と反撃したくなる。禅を修行しているからといって他人に踏みつけにされっぱなしにならなければならないということはない。でも「この相手はもっと穏やかな言い方をする選択肢もあるのにわざわざ意地悪な言い方をしている」とか思ってしまうと、それは相手の「我」を想定していることになり、ひいては自分の「我」も想定していることになる。そこに虚偽がある。「我」が存在しているという前提は間違っているからだ。とまあ言うのは簡単で、どなられた瞬間にそのことに思いをいたすのは今の私には無理だが。


030607(土曜)

 引きこもり、という状態にある青少年が全国に数十万人いるという。家を出ず、学校や仕事に行かずに引きこもって暮らしているらしい。坐禅というのは一時的な引きこもりかなと思った。私にとってはそういう感じがする。世間に戻ろうとあがくより、逆にどーんと引きこもるというのがたとえば接心ということか。自分の内側を見つめるという文化的な装置が物質文明の氾濫で失われ、内部を見る潮時になった人々が無理に外部世界に戻ろうとするために宙吊りになるのが引きこもりなのではないか。


030606(金曜)

 少し尻を後ろに突き出しつつ呼吸に注意していると、ソーセージみたいに反った下腹部に息がたっぷり入っていく感じが得られる。尻が腹の下に戻ると吸う息で腹の前面が突っ張る。呼吸のコツが少しわかってきたようでうれしい。


030605(木曜)

 一日妙に散乱した気分で過ごした。どうしてかなと考えてみたが、なぜある気分になるかなんていうことが本当にわかるわけもない、とふと思った。催眠術をかけられた人に「手をたたいたら窓を開けなさい」と暗示をかけ、術からさめた後で手をたたくと、被験者はちゃんと窓を開けるが、なぜそうしたのかを問われると、「ちょっと暑いから」とか適当に理屈をつけるそうだ。私が今日散乱した気分になった理由も、多分私が考え付くものとは違うのだろう。そう思うとなんか心が軽くなるようだ。

 禅の修業というのは、この催眠術の被験者がつけるような理屈の薄っぺらさを見抜くということでもある。いろんな理屈を貼りあわせて作り上げた世界像を私たちは後生大事に抱えているが、よくみると理屈と理屈の間はすかすかなのだ。理屈屋の真骨頂は、理屈同士の境界を見定めて、隙間から大空を見上げることだろう。


030604(水曜)

 仏道というのは人間であることを学ぶことである、と道元禅師も言っておられる。これはユング派の臨床心理学の立場とかなり近いのではないか? 実際、仏教者の立場からユング心理学の本を書かれた方もいたと思う。名前は思い出せないが。あえて違いがあるとすれば、臨床心理学は「自己の完成」といった目標意識をもつのに対して禅の方は(特に曹洞禅は)あくまで坐ること自体が完成であるという、「もうすでに到着している」立場で修行するということか。いずれにせよ、どっちがいいかなど議論するよりも互いに他方から何が学べるか、ということだろう。禅が道教的な風習の盛んな中国に入ったときはそういう中国人に入りやすい形に姿を変えたという。カウンセリングの盛んなアメリカでは禅もそういう形に変わってくるのだろう。日本の様子は今のところよくわからないが。


030603(火曜)

 禅と臨床心理学はどういう関係にあるのか。癒しを求めて禅を始めるということもある。ダルマレインでの参禅(独参)はカウンセリングみたいになることもある。どういう形にせよ、先生の人柄、生き様に触れることで何かを感得して行くという要素はある。達磨大師のすぐ後の何代かの禅師たちは皆特定の悩みを抱えて先生を訪ねている。


030602(月曜)

 坐るときに、ちょっと尻を後ろに突き出す感じにすると息が腹に入りやすくなるようだ。多少背中の筋肉に負担がかかる気もするが、加減によっては自然に丹田に息を入れるきっかけになるかもしれない。


030601(日曜)

 禅を始めた理由の一つは人との感情的齟齬などで痛い思いをせずに人付き合いがしたいというようなことだった。でもこれは感情を抑圧して理性だけで人に出会っていこうとする私の旧来の傾向をただ強化するだけだ。もっとも問題なのは鎧を着っぱなしで脱げなくなることであって、常に敏感な皮膚を人にさらけ出して生きなければいけないということではない。


030531(土曜)

 曹洞宗と臨済宗を比較すると、前者は坐ってばかりでだんだんだれてくる傾向があり、後者はともすると走り回りすぎて仏教から離れてしまう傾向があると香厳先生がいっていた。両者は補完的な関係にあるらしい。何も求めずに坐るという曹洞宗の修法と、ひたすら悟りを目指して激しく修行する臨済宗のやり方を比べると、やはり私にとっては曹洞宗から入るのが自然だったなと思う。どちらから入ってもどこかで他方の風味を加える修行者が多いらしいと聞いているが。


030530(金曜)

 「お前はどう考えているのか?」とか「どう感じているのか?」とか面と向かって聞かれるのは苦手だ。そういう尋ね方をされること自体がもう罰を受けているような気になる。自分というものを全体的な状況の中から抉り出して、孤立させた上で「どう感じる?」とか言われても困る。しかしこういう質問を受けるたびに傷を負っていたのでは身が持たない。もともと、自分が孤立していると考えやすいたちだからこういう質問に引っかかるのだ。孤立が幻想に過ぎないことをどこまで深く気づいているか、ということだ。


030529(木曜)

 人に注意を向けると、上下、優劣、強弱等の意識が出て来やすい。哺乳動物という本来縄張り的な起源をもつ我々は序列をつけたがる気持ちから完全に逃れることはできないが、人と人が共にいるときに本質的なのはそういうことではない。「人間」という言葉に見えるように、人と人の間に生じる何かが重要なのだ。その何かは我々が「人間関係」に汲々としているときにもバックグラウンドで作用している。しかしこれをある程度意識できるようになれば、それこそ奇跡が起こるのではないだろうか。


030528(水曜)

 禅はまず人の世界から離れて壁を向いて坐ることから始まるが、やがては人の世界に戻ってくることになっている。人の世界で生きる中で生じた結ぼれの数々がほどけてくる過程と、人の世界に戻りつつ結ぼれを作らないという過程だ。


030527(火曜)

 こないだの接心の最後に玉光先生が法話でこんなことを言っていた、「修行時代、自分の背中が痛むのが腹立たしかった。そのことを受け入れようとしたが、実は受け入れれば後は楽になる、とかいう筋書きを考えての受け入れだったので、だめだった。でもあるとき、本当に受け入れたら、そのときからがらっと世界が変わった。」

 自分のいやなところを受け入れるというのは、いうだけなら簡単だが実際に本当に受け入れるとなるとほとんど不可能だ。たとえば、恥をかくことを受け入れるといっても「ここで恥をかけば、自分はもっと高い境地になれる」なんて下心を持っていたのでは受け入れたことにはならない。現実を受け入れるというのは、当たり前みたいだが、本当はそれこそ悟っていなければ現実をそのまま受け入れるなんていう芸当はできない。他人や自分や世の中に対して「こうでないからけしからん」という批判が頭の中を巡らないというのはもうすごい境地である。


030526(月曜)

 禅のことをごちゃごちゃ書いたからといって修行が進むわけでは全然ない。あーあ。

 そういえば香厳先生が昨日の法話で「うちも最近は坐るからには三昧境を目指すということにも焦点を置くようにしているが、しかし三昧境を経験してもそれと悟りとは直接何の関係もないことに注意しなければならない」と言っていた。

 明日は「本当に受け入れる」ということについて書きたい。


030525(日曜)

 接心でがんばってその後も2,3日は元気だったが、木曜頃から疲れが出てきた。こうなると何事も消極的かつ弱気になる。自分でそれがいやなので、調子がいいときにその状態にしがみつこうとする傾向がある。香厳先生は「低エネルギーの状態を受け入れることが大事」と言う。もっともだ。また「自分の修行時代にはとにかく毎日やらなければならないことがたくさんあって、いつも疲れていたので、エネルギーの高低の変化があまりなくて良い面もあった。」とも言っていた。

 私は大体夢中になってがんばってその後ズドーンと落ち込む性質で、後年それを警戒してあまり何事にも力を入れないようになったかもしれない。でもそれでは人生面白くない。興味のあることを他人とシェアすれば、もっと安定して楽しめるのかもしれないが、今までは一人でやるだけなので、疲れるともういやになってしまってそれまでの蓄積もぱーになった。

 今日は参禅(独参)で香厳先生と話していて、ふと「この人が自分の先生なんだなあ」としみじみ思った。


030524(土曜)

 朝は必ず坐禅をする。でも子供たちが朝食を食べたり学校に行く準備をしたりで、そんなに静かな環境ではない。それでもそういう日常生活の中で坐っていくことがいいような気もする。坐禅の前には観音様の像やラジニーシさんの写真やシャーマニズム関係のパワーアニマルや大酋長シアトルの墓から持ってきた杉ぼっくりや、永光寺の五老峰から拾ってきた小枝や、少年時代を過ごしたなつかしい高槻のどぶ川の近くから拾ってきた小枝や、実にいろいろなものに簡単に挨拶する。


030523(金曜) 禅の修業に競争心は邪魔者か。なんだか公案みだいたが、修行に入る理由というのはたいていそんなにかっこいいものではないだろう。殿様に侮辱されて逐電した侍が中国まで行って修行し、立派な僧になって帰ってきたという話がある。私の場合はただぼんやりしている時間が欲しかったというのが正直なところかもしれない。競争心という要素も人間の心に中に確かにあるのだから、それも修行の肥やしになればいいのかな。


030522(木曜)

 「コペンハーゲン」という芝居がある。原子物理と量子力学の巨人ボーアとハイゼンベルグの会話を主体にしたものだが、その中で、ちょうど電子というものが、観測される前に存在しているとは必ずしもいえないように、人間も会う前に確固としたものとして存在するとはいえないとかいう台詞があった。坐禅しているときの思念もそうだなと思った。ふっと浮かんだときは非常に存在感があるが、それでは10秒前にその思念がどこにあったか、そもそも存在していたのかどうか、怪しい。フロイトの精神分析では古典物理のように、意識では見えていなくても思念は無意識のどこかに隠れていると仮定するが、ある思念が姿をあらわすのは外から何か刺激があって、それに答える形で出てくるようだ。ちょうど電子の存在が、他の粒子や光子との衝突で明らかになるように。


030521(水曜)

 玉光先生から「自分が本当に楽しめることをして、そのうれしさを子供たちにみせるように。」と言われている。そう言われるとなにが本当に楽しいのか、よくわからなくなる。接心でがんばったので疲れが出ているということもある。


030520(火曜)

 芝居を見ているとき、実際見ているのは役者の動きであり、聞いているのは役者の声なのだが、それらを総合したものが芝居かというとそうでもない。芝居の世界は役者が演じなかった部分も全て含まれた全体なのだ。

 あるいは、澄んだ池の中に魚が泳いでいると、それによって初めてそこに水があることがわかる。物音が聞こえて初めてあたりの静けさに気づく。


030519(月曜)

 呼吸というのは、普段はごく自然にやっていて、特に悩んだりすることはないが、座禅をしていて吐く息をゆっくり長くしようと思い始めるととたんに腹が緊張してくる。私の場合はみぞおちの下が痛くなったりする。これについて相談したら、ホウゲン先生が「無理は禁物。やさしく、やさしく。息が丹田に入り、丹田から上ってくるように感じること。吐く息がつかえたらそこで止まって待てば、自然に吸う動作になる。」とアドバイスしてくれた。


030518(日曜)

 接心から帰ってきた。今回は配膳係のチーフを務めたので、忙しかったが、はげみもあり、4人の配膳係に指示を出しながら、オートミールやスープや応量器を洗うお湯が冷めないよう、食事時間の寸前にキッチンから禅堂までの50メートルほどを急いで運ぶというスリルもあった。

 こういうふうに接心中に仕事をするのは、禅を日常生活に浸透させていく練習になる。聞くところによるとこれは曹洞宗のスタイルで、臨済宗の方はもっと坐禅に集中するらしい。曹洞宗では食事係は大切な役割であるということになっている。


030511(日曜)

 明日の夜から6日間の伝光会接心。食事を出す係りをおおせつかった。多少役割があるほうがかえって気持ちがひき締まるだろう。最初はちょっとまごつくだろうが。

 今日の法話は慈光さんで、「失望」の話。それまでの自分の人生に対する失望、先生に対する失望、自分の修行に対する失望。失望を償うような大満足が得られると思って修行するのではなく、失望を通じて現実を見ることが大事なのだという話。


030510(土曜)

 結跏趺坐がけっこうできるようになってきた(5/5参照)。足首の曲げがポイントだったようだ。明後日からの接心ではまだビルマ式でやるつもりだ。結跏趺坐を長時間やった場合膝に炎症が起きるかもしれないし、いったん炎症が起こるとどんな坐り方をしても痛いし余計傷めることにもなるから。

 足首が極端に内側に曲がった状態で長時間坐った場合足首にどんな影響が出るのかも不明だ。だんだん慣れてくるということはあるだろうが、少しずつどこかを傷めてくる可能性もある。


030509(金曜)

 気に触ることがあるとそれを表現せずにだまって機嫌悪くなるのが私のパターンだ。女房は「頭から煙が出るからわかる」と言うが。感情が自分自身からも隠れてしまうと、奇妙に頼りない、ロボットのような気分になる。感情と共にいるときは行動できず、行動しているときは感情が見えない。この分裂をなんとかしたいという気持ちが、ユング心理学やラジニーシや、果ては禅への接近の背景にある。

 踊れない、というのもそんなところから来ているのかもしれない。何かを感じると体が止まる。体を動かすのはなんらかの目的があるときだ。感じを表現するためではない。


030508(木曜)

 気持ちが乱れているときに、周囲の音や自分の呼吸に注意を向けることでふっと楽になるということを4/84/15に書いたが、これによってやっかいな感情から逃げるということになってしまわないかという気がかりがちょっとある。


030507(水曜)

 坐禅の呼吸は丹田から吐き出し丹田に入れるとどこかの日本語のホームページに書いてあった。道元禅師がそう書かれたのだそうだ。ダルマレインでは呼吸についてそれほど細かいことは言わないので、私はあまり意識しないことが多い。

 仏教クラスでも坐り方や呼吸の仕方は話題にならないようだ。入門クラスなら一応指導があるのだろうが。6月末に日本の林泉寺を訪問して在家の修行者と話をしようと思っているせいか、自分のやっていることに自意識が強くなっている。坐り方、呼吸の仕方、7年も坐っているのにあまりはっきりした感覚がない。


030506(火曜)

 キリスト教というのは家族のための宗教だから、夫と妻の関係の規範というものがちゃんとある。仏教は僧のためのものであったから、そういう規定がない。禅を修行する夫婦の間の関係についてのアドバイスなんていうのは昔の禅のテキストには全然ないと思う。そういうのはこれからアメリカみたいに在家の修行者が中心になっているところで少しずつできてくるのだろう。とりあえず今のところは手探りか。子供の教育についてもそれは言えるような気がする。今まで仏教のテキストをテラバダンから大乗まで見てきて、子供をどう育てるかなんていうのは見たことがない。

 これが旧約聖書だとたとえば申命記に「わがままな子供は石で撃ち殺す」なんていうことが書いてある。これをそのまま実行するユダヤ教徒はあまりいないだろうが。


030505(月曜)

 4/245/3の続き。ダルマレインでただ一人結跏趺坐をやっている男性にどういうふうにしてできるようになったのか尋ねてみた。やはり最後の決め手は足首の柔軟性だと言われた。そうであればかなり有望だ。足首の内転の練習は今までしてなかったので、やれば比較的早く効果が出るだろうから。彼は「どちらの足を上にするかで尻の坐り方にアンバランスが出るので、蕎麦殻の座布を使って調節するといい」とも言っていた。蕎麦殻なら左右の尻の骨の高さが多少違っても蕎麦殻の分布を調節すれば背骨を曲げずに済む。なるほど。


030504(日曜)

 去年はサッカーのコーチとかやって慣れないリーダー役に結構刺激を感じてやっていたのだが、今年は通訳のように表に出ない裏方の仕事がぴったりくる。そんなことを香厳先生に相談したら、「またそのうち前に出なきゃならないときもくるさ」と言われた。

 生来の性質から言えば目立たないのが一番であり、その基調は変わらないだろう。でも、だからこそたまには目立つ立場にも身をおいて、その経験によって目立たない立場での自分の貢献に幅を持たせることができる、というふうに考えている。


030503(土曜)

 4/24に書いたように私は坐るときはビルマ式に両足を座布団の上に寝かせているが、結跏趺坐の安定性は魅力だし、やはりその方が本式という気もするので、いろいろストレッチを毎晩やっている。ここ数日数分ずつ結跏趺坐を組んでみて、無理がないかどうかチェックしている。足首が内側にねじれるのが痛い。右足が上のときはそれでもそのまま坐っていられそうなくらいだ。左足が上のときはちょっと痛くて1分くらいしか続かない。

 今のところ長時間結跏趺坐をするのはまだ早いようだが、そのうちなんとかなりそうな気がしてきた。足首の外側をストレッチして内側に曲がりやすくすればいいのかもしれない。私は足首を何度か怪我しているので関節が硬くなっている可能性がある。


030502(金曜)

 やりたいことをなんでもやっていては修行にならない気がするが、逆にやりたいことをやらないとかえって妨げになるということもある。昨日弁護士がカリブ海でスクーバダイビングした話を聞いていいなと思ったので、今日はプールに行って何回か潜水した。私にとってはカリブ海でもプールでもそんなに変わりはない。何をするかが大事なので、周囲の景色はまあ二の次なのだ。これはやっておいたほうがいいことのように思えた。


030501(木曜)

 4/29に、仏教は中空でキリスト教は中心に神が坐っているということを書いたが、私にとっては聖性というのは周囲に瀰漫するもので、どこか中心にあるものではない。聖性なんていう言葉を使っても意味がはっきりしないが、なにかしっくりくる感じとでもいおうか。小さな虫をふと見たときに無限の宇宙の意思を感じるということがある。逆に壮麗な建物とか仏像とかはぴんとこない(鎌倉の大仏は好きだが)。

 私自身、人の注目を集めるのは好きでなくて、ふだんは壁や背景でありたい。ときどき、言いたいことが内部で膨れあがり鼓動が速くなったりした時は皆に聞いてほしいが、そんなことはそう頻繁にはない。見られているというのは基本的に心地悪いものだ。こういう性分は謙虚ともいえるが、注目されたくてがんばるということがないので怠け者になりやすい。


030430(水曜)

 中国禅の第8代石頭希遷(セキトウ・キセン)禅師は英訳では「What meets the eye is the way.」と言われた由。今ここ、目の前にあるものが道である、というこの言い方には感じるものがある。目の前のものを見るときに、観察するような見方と、受容的な見方がある。前者は客観的、科学的で、木石や機械等を見るときは誰でもたいていそういう見方をする。後者はたとえば尊敬する先生を見るとき、すなわち見ているものから何かが伝わってくるのを待つような見方である。たとえ木石であってもこちらがそういう受容的な見方をすると、なにかが伝わってくる。後に洞山禅師が無情説法を説いたのもこれにつながっている。


030429(火曜)

 キリスト教の人と話していると、仏教というのは中心がまさに空なんだなと思う。あっちは神というキャラクターがどっかり中心に坐っているからある意味でものごとがわかりやすい。もっともキリスト教でも神が自分に何をするように望んでいるかを知ろうとすれば、たとえば聖書をじっくり勉強することになる。聖書の一節だけを取り出して「聖書にこう書いてあるから」と自分の行動の正当化に使うのはキリスト教でも認められないようだ。

 キリスト教は何をするかということについて神の指針を受けることが重要である。仏教では自分の我を相対化してこの瞬間にばっちり存在できることが大事で、そこで何をするかはわりとフリーフローだ。

 あっちにはあっちの良さと落とし穴があり、こっちにもこっちの良さと落とし穴がある。キリスト教徒と話すご利益は互いにそういうことに気づくチャンスになるということか。


030428(月曜)

 中国禅の第六代はダイカン・エノウという人で、この人の伝記と説教が壇経という名前で残っている。なんの修行もしてなかった、南の蛮人で、金剛経の一説を誰かが唱えるのを聞いて忽然と悟ったという。インド仏教の理屈っぽさから一歩中国化したということらしい。経なんか読まなくても悟れるという革新的な主張がそこにある。でもその後どんどんわけのわからんいわゆる禅問答が増えていったという気もする。それがいつかの公案集という形になった。こないだ臨済宗の禅僧の講演を聞いたが、彼によると若い禅僧がいくらがんばっても宋代の公案集の答えには決してかなわないという。経という形式から逃れた中国禅は公案集という形で自ら形式化した。悪いことではない。人の知恵の結晶は次の世代を触発する。


030427(日曜)

 娘のシンクロの試合とか息子のサッカーの試合とかでくたびれた。こういうとき静かな接心が恋しくなるが、接心を避難場所にしてしまってはいけないなとも思う。


030426(土曜)

 安居期間中なので、ダルマレインでは朝6時から坐禅と朝課がある。昨日は早朝に起きて歩いて行って来たが、今日は眠すぎて断念。朝早く起きて歩くのは気持ちいいが夜なかなか早く寝られない。


030425(金曜)

 今日本やアメリカでは子供への体罰は禁じられているし、子供を怒鳴りつけることも悪いことだとされている。ところが世界中を見るとこれはどうも例外で、むちゃくちゃ子供をぶんなぐるなんていうことが日常的に行われているところも多いようだ。そういう環境で育った大人がけっこう人懐こかったりして、誰にも殴られたことのない私が返って人と疎遠になる傾向があるというのは不思議だ。

 禅でもたとえば永平寺での修行を書いた「食う、寝る、坐る」という本を読むと旧陸軍みたいなしごき修行があるようだ。それが意外と悪い結果を生んでいないようにみえる(まあ生んでいるという可能性も十分あるが)のは、人間の成長におけるネガティブな教育の価値について考えさせる。人は殴られたからひねくれるというものでもないらしい。殴るというのは少なくとも無視ではない。おだやかなだけで安全距離より近くに寄ってこない親に深く傷つく子供の方が現代では大きな問題なのかもしれない。

 坐禅で足が痛くなるのを修行への障害と見るか、それともそこに修行上の価値を見出すかはなかなか微妙なところだ。うちの先生たちも、ある程度は耐えることを勧めているようだ。香厳、玉光両先生はかなり膝や腰を傷めている。


030424(木曜)

 坐禅の理想的な坐り方は結跏趺坐だろうが、しかし現代の中年がいきなり脚を結跏趺坐に組んで坐ろうとしたら恐ろしく痛いだけでなく、膝を傷めてしまうことも多いようだ。道元禅師の書いたものの中には脚の痛さは言及されていないと思う。昔の人は普段から床に坐ることが多かったから股の関節が開きやすかったのだろう。

 私は足先を腿に乗せずに座布団の上に寝かせるビルマ式の坐り方をしている。これだと股関節がそれほど開かなくても膝がねじれない。それでも膝が痛むようなら膝の下に何かはさむ。ビルマ式は組んだ足の上に手を置くにはちょっと低すぎるので、間に何かやわらかいものをはさむといい。ダルマレインでは結跏趺坐で坐るのは私の知る限り一人だけ、後は半跏趺坐か私のようなビルマ式、あるいは座布をたてにして両足の間にはさみ、正座、というものある。椅子に坐ってやる人も数人いる。


030423(水曜)

 きつい通訳の一日。我に返ると周囲の音に注意したり、呼吸を感じたりするように努力した。自分がどう評価されているかとか考え出すとナーバスになる。訳そうにも言葉が出てこない空白の時間はあせるが、ある意味では言葉に汚染されない貴重な瞬間であるともいえる。


030422(火曜)

 中国禅の第六祖の壇経を学んでいる。亡くなる前の最後の言葉として、仏道というのは人間であることを学ぶことであるというようなことを言っている。自分を学ぶことが仏道であるとは道元禅師も書いておられる。他人を学ぶことは方便を豊かにすると香厳先生は言っていた。

 私の場合、「どうして人間というのはこうなんだろう?」という問いがよく湧いてくるが、そのとき自分を人間の外に置いてしまっているのがどうもまずいかなと思う。内側から見るのと外側から見るのでは違って見えるのは当然かも知れぬが。


030421(月曜)

 ヨルダンに行っていた友人によると、あちらでは人の気持ちがとても暖かいが、子供の折檻はひどくきつくてとても見ていられない由。前に永平寺の修行をしていた人の本で、新参者が殴る蹴るの乱暴を受けるという話を読んだ。そういう扱いを受けても人間がちゃんとまともになるのかなと思う。


030420(日曜)

 イラク戦争のニュースとそれに関するMLでの議論にエネルギーを消費してかなり暗い気分になっている。玉光先生に参禅でそのことを聞いたら、あんまりひどいようならニュースから少し遠ざかったほうがいいと言われた。「山の中で瞑想していくら三昧境になってもざわついた町に出てきていっぺんにくずれてしまうようではしょうがないから、世の中の動きにある程度触れつつ生きるべきだが、それにも限度というものがある。」


030419(土曜)

 昨日久しぶりにきつい通訳をやって、今日もまだぼーっとしている。以前、玉光先生に「集中力を要する仕事をするのは修行に良い」と言われたが、寝ていても自分の寝言を通訳しようとしてそれがうまくできなくて苦しむというような状態は行き過ぎだ。ただ休むだけでなくじっくり坐るとか、あるいはまったく別の、しかしやはり集中力を要する作業をするのがいいかもしれない。というわけで、庭仕事をしばらくやった。


030418(金曜)

 前にうまくいったことをまたうまくやろうと思ってやるとどうもだめ、ということがよくある。そういうとき、前にうまくいったときに「自分はこれをうまくできる人間だ」という自己イメージを作ってしまっていたことがわかる。何かに失敗したときにも「自分はこれができない人間なんだ」と思ってしまうとこれもまずい。何ができるとかできないとかいうことで自分を箱に入れてしまうと後で苦しむことになる。


030417(木曜)

 4/7の記述でも触れたが、法華経の世界というのはアメリカ大陸より大きな仏様が出現したりして、弟子は非常に小さな存在になる。これはちょっとキリスト教の神様と人間の関係のようだ。うちにやってくるものみの塔の人たちと話していると、わりと通じる面もあるが、この神と人間の関係のところでは理解が途絶する。「神が」と神を主語にして話されると私にはどうもぴんとこない。仏陀の知恵は尊重するとしてもあんな宇宙的なスケールの存在として崇拝することには抵抗がある。もっとも自我が宇宙を含む(4/7参照)のであれば仏様はそれより大きくないと釣り合いが取れないわけだが。


030416(水曜)

 禅センターのMLで誰かが「自分の中にサダム・フセインやヒットラーがいるのを感じる。それをどう許すことができるのか?」と質問しているのに対して、慈光さんが「自分が善だとか、自分が悪だとか言い出すと迷いに落ち込む。過去の無知に基づいた行為の果実を今賢くなったあなたが摘み取っていると考えては?」と答えていた。

 私も「自分の中に悪意を見出す」とかいう言い方をするが、こういう言い方は「自分」がいかにも固定した存在であるような錯覚を生み出す。


030415(火曜)

 心配事で頭が擦り切れそうになっているのに気づくと、私は自分の周囲の音に注意を向ける。ハードディスクの回転音、トイレを流す音、通りを走る車の音、特に何の音もなくてもいつも聞こえている「シー」という高音の雑音。この「シー」という音をコスミックノイズと呼ぶ人もいる。これは頭の中で聞こえている感じなので、注意が体の中に移行する。すると自分の呼吸を感じる。このころまでには何が気がかりだったかも忘れて静かな気持ちになっている。(実はこれは4/8に同じテーマで書いたのを忘れて書いてしまったのだが、私にとっては大事なところなのであえて消さないことにした。)

 坐禅のとき、気が散っているのに気づいたら目の前の壁に注意を戻すという作業を繰り返すが、これはそれを日常生活に応用したものだ。


030414(月曜)

 属しているMLで、イラク戦争に関する私の議論が感情を欠いているという批判を受けた。感情に出口を与えるとそれが憎しみに変わってしまいやすいような気がして、つい理屈だけで通そうとする癖は自分でもわかっているが、それでもつい気づかずやってしまう。


030413(日曜)

 今日の法話は「失敗」という事について。ふと思ったのは、私がイラク戦争のことで頭に来て熱くなっていた最大の原因は、まさか本当に先制攻撃を仕掛けることはないだろうという私の予想が完全に外れて、世界の動きへの自分の理解が間違っていたことを思い知らされたことだということ。理解することを熱望する私は自分の理解が間違っているとひどいショックを受ける。多くの人が死んだことよりも自我が傷ついたことのほうが大問題だったのだ。そう気がついたらずっと気持ちが楽になった。私みたいな者は病人や困っている人を助けるには向かないが、しかし何かを理解したい人を助けることはできるだろう。人それぞれ得意技がある。


030412(土曜)

 今度の戦争のニュースをいろいろインターネットで追っているうちに、不機嫌になってつい人に当たるようになった。日曜日に玉光先生が言ったように、あまり外の世界のごちゃごちゃを吸収すると人格が悪化するようだ。といって、無視する気にもなれない。ときどき多少人格が悪化しても知りたいことは知りたい。どんどん暗くならないための安全弁はやはり「気づき」ということだろう。特定の人や団体を心の中で何度も罵倒しているようだと危険信号だ。


030410(木曜)

 布薩というのは広辞苑では「仏教教団で、半月ごとに集まって戒律の条文を読み上げ、互いに自己の罪過を懺悔する儀式」とある。ダルマレイン禅センターでは月に一回有志でやっている。うちのやり方は自分の修行でネガティブな部分とポジティブな部分の両方について告白するという形をとる。今夜行って来た。発言内容は外に出してはいけないことになっているから書けないが、先生を含めて真率な自己凝視をシェアする。

 こういうふうに「言える雰囲気」というのはとても大事だ。友人であれグループであれそういう場を持っていると勇気も出てくる。


030409(水曜)

 なんか気に食わないやつというのがある。特に何か衝突があったとか言うのではないのだが、ちょっとした言動にかちんとくる。こういうケースは自分の持っているなんらかのこだわりに気づく絶好のチャンスだ。もっとも、たとえ理由はわかってもやっぱり反りが合わないということはある。英語ではbad chemistryという。そういうことに気づくのも実践的には大事なことだ。禅の先生の間にも犬猿の仲というのはちゃんとあるらしい。


030408(火曜)

 私は聴覚に注意を集中すると思考が止まる。戦争のことなんかを考えてどうどうめぐりになっているときは、ハードディスクのうなりや外の車の音や風の音に耳を澄ますとふっと気持ちが軽くなる。こういう安全バルブがあると、重苦しいことを考えたり、心乱れる記憶を呼び起こすことができる気がする。考えや情動に捕らえられて耳を澄ますことを思いつきもしなくなるとやばい。しかし坐禅のおかげで思考や感情のちょっとした隙間に我に帰ることが頻繁になっている。


030407(月曜)

 お釈迦様の時代の教えというのはどちらかというと自分で修行して光明を得るという感じで、亡くなる前にも弟子たちに「自らの光となれ」と諭した。これが大乗仏教になると仏が宇宙規模の超巨大な存在として崇められるようになる。それに比べて修行者は非常に小さなものとして語られる。

 実際の修行でもある種の自信と謙虚さの両方が必要なのだろう。自己は宇宙全体を含む、ということもできるが、また同時に自己は一瞬一瞬に生まれては死んでいく、ともいえる。どの瞬間にも私は世界全体のイメージを持っている。しかしそのイメージはそのときどきの気分や環境に大きく影響され、よくみると同じ対象に対しても昨日と今日とではずいぶん違う見方をしていたりする。


030406(日曜)

 バグダッドで2,3千人が死んだらしいというニュースをインターネットで見て心が重くなり、禅センターに行って、そのことについて参禅(個人質問)をした。玉光のコメントは「僧院で修行していたとき、最初の3〜5年は外の世界のことを無視するように指導される。それは、まず自分の身の回りの困難に対処する姿勢を身に付けることからはじめ、そこから少しずつ広げていくことを目指すからだ。世界的な規模で起こっている出来事に、心を迷わされずに対処することは非常に難しい。」


030405(土曜)

 今眼前に起こっている現実は、何十億年もの因果の積み重ねの総体なのだから、尊重するのが当然である。しかし、明日になれば今日の現実は後も残さず消えている、ということも真実なのだ。


030404(金曜)

 この戦争みたいに自分が受け入れたくない事態が進行している場合、誰をも非難することなく受け入れるというのが達磨大師の説教にある。へたするとこれは無関心・無気力の正当化になるが、誰かを悪者にして溜飲を下げるというのはそのとき気持ちがよくても後で二日酔いする。意図的に悪いことをする心、といったものの恒久的な存在を信じ込んでしまうともう迷妄の真っ只中に入ってしまう。


030403(木曜)

 ものみの塔の人と話していて、彼は「聖書に殺すなと書いてあるので私たちは兵役には就きません」というので、「じゃあブッシュさんはどうして信仰を強調するのでしょう?」と聞いたら「聖書の別の部分を読んでいるんでしょうね」という答え。ブッシュはあほだとかいう答えよりはこの方が私は好きだ。

 キリスト教徒の間では意見が対立するにしても聖書という同じ土俵で勝負できるという利点がある。仏教の場合は聖書ほどはっきりした権威がないけれど、修行している同士ならけっこう話は通じると思う。


030402(水曜)

 仏教徒として私は菩薩十六戒というのを心に留めるようにしている。その中に「怒りに耽るな(do not indulge anger)」というのがある。私はこの「耽る(ふける)」という言い方が好きだ。怒るな、というのではない。怒りが生じることは制御できないし、怒ることがいつも悪いことだとも限らない。しかし、怒りに油を注ぐようなことを考える癖、というのがまずい。たいていの場合、悪者を決めてそいつの悪いところばかり考えているうちに、みんなそいつのせいだ、という結論になってしまう。最初に発生した怒りと、最終的に悪者にされた人間との間の関連は、後で冷静になって見直すとはなはだ不明瞭だったりする。9/11テロでアメリカ人が怒るのはもっともだが、それがわずか2ヵ月後にアフガニスタン爆撃という、暴力の大増幅を招いたのは怒りをぶつける相手を求めるアメリカ人の心情を政府が利用したものだ。


030401(火曜)

 日常生活における禅、とかいうテーマでやってみようかと思っている。私が住んでいる米国がイラクを侵略している真っ最中という状況は、極端な感情を避けたいという私の仏教徒としての気持ちからは極めてありがたくない。つい米国やイラクの大統領のことをうらめしく思ったり、皮肉な考えに慰めを見出そうとしたり、いずれにしても今、ここ、に集中することからはほど遠い。

 しかし、ある意味ではこういう状況でこそ、修行の真価が問われるのだともいえる。もっとも大切なことは、この状況を誰かのせいにしないこと。ブッシュ大統領にしても、サダムフセイン大統領にしても、それぞれが生まれた文化や環境、さらには全人類の歴史、全存在の歴史が彼らの今につながっている。