020524(金曜)
うちのUU教会はどうも会衆になじまない牧師を雇ってしまい、3年のうちにその牧師に同調する人々も入ってくると同時にもとからいた人たちの多くは非常にいずらくなってきたという状況らしい。どう対応するにせよ、出血は避けられない。
今日はメモリアルサービス、といっても特定の人のではなく、各人が自分のおじいさんおばあさんなど、亡くなった懐かしい人々のことをシェアした。私が司会。とちったところもあったが、全体にいい感じで進んだ。子供が退屈したのは残念。歌もよくひびいた。
地下に置いてあったPCを一階に移した。これから暑くなるのだから地下の方がいいような気もするが、どうも地下に一人でいるのも妙な感じなのだ。このごろ人といるのがかなり当たり前になっていて、本は読まないし、書くほうもほとんどおるす。
020523(木曜)
坐禅をしているときにいろんな思考が浮かんでくるが、それらに対して去るものは追わず、来るものは拒まず、という態度で応じるのが心構え。このごろ日常生活でもある程度それができるようになってきた。実際何かやっているときはちゃんと思考をたどっていかないとまずいんじゃないかという気もしたが、実は思考をたどることで返って現実からずれてしまっていたことが多いようだ。思考というのは乱反射のエコーのようなもので、現実にあったことがトリガになっていても、5回目のエコーくらいになるともうもとの刺激とは全然関係ない妄想になってしまっている。
020522(水曜)
午前中、検査用テーブルをピックアップ。小さいが重たい箪笥のようなものも。ふうふういいながらサラの新しいオフィスに収める。
例によってダルマレインで洗濯。ランチがビュッフェ形式になって会話がなくなってしまった。
夕方のクラスは臨済宗。ZCOのホウゲンの話。臨済宗の修行はやたら乱暴みたいだなあ。肩がぶんなぐられすぎて腫れてきたりするらしい。修行で心身ともにぼろぼろになった人も多い由。こういう無茶には反発を感じるが、その反発が何を意味しているのかがちょっと不気味。
ホウゲンと目が合っているとき、ちょっとパニックに陥ったのは彼が私の言葉に反応しないこと。同種同性の哺乳動物同士が本能的に感じる反感をやわらげるために、私は知的な話をする。ユーモアを使う人もいる。やたらへりくだるかあるいは逆に居丈高になって、上下関係を作って落ち着こうとする人もいる。どうも臨済宗のやり方というのはそういう緩衝機構をすべてなくしていっしょにいられるような境地をめざしているかのようだ。
020521(火曜)
日曜日にUU教会の移転の投票があり、我々の推していた移転案は否決されて、Trinity教会に残ることになった。こういう場合に牧師が影響力を行使して表決の結果を左右したように見えたのが心配。牧師と民主主義的決定とは折り合いが悪いような気がした。
EMのところでドアを作ったりした。最近の蝶番はいろいろ調節できたり、動きが複雑になっている。
サラは新しいオフィスの家具をいろいろ探している。ドアつきの戸棚が古物屋で250ドル。今日は私もオフィスに行って戸棚の寸法を測った。棚板を作る必要があるからだ。
020516(木曜)
昨夕、ダイヤル式の南京錠をばらしてメカニズムを調べた。そのときドレメルの超小型円板回転のこぎりを使って薄い金属板を切ったのだが、1時間くらいして右目が赤くなり、どんどん目やにが出てきた。微小な金属片がまぶたの下に入ってしまったのではないか、ということになり、サラが私の目蓋を箸にまきつけてひっくり返して裏側を見ようとしたが、痛いしなかなかうまくいかない。結局私が目蓋を持ち上げ、サラがコンタクトの洗浄液をスプレーして洗い流そうとした。朝、目やにはまだあるが別に痛くはないので異物は結局なかったようだ。
020514(火曜)
昨夜、布団の中でUU教会の集会のことを考えていた。Unitarian Universalismというのは一応キリスト教の中に入っているらしいが、どちらかというとヒューマニズムの色が濃くて、他宗派の人でも受け入れる幅の広さを持っている。牧師の中には仏教徒もいるそうだ。昨夜の集会で浮かび上がってきたのは、キリスト教色を強めたいという人々と、キリスト教からもっと距離を置きたいという人々の間のテンションだ。
020513(月曜)
ヒルズボロ行きの電車は片道僅か1ドル55セントだが、50分くらいたっぷり乗れる。振動、音、近景が飛び去り、遠景はゆっくり動いていく。そんな中にゆったり身を浸しているととてもなつかしく落ち着いた気持ちになる。
UU教会では集会場所として別の建物を借りるかどうかで大議論が進行中。今日も夕方そのミーティングがあった。十字架に見下ろされるのはいやだ、とか、ゲイ/レズの結婚式をやらせてくれない教会はいやだ、とか、建物を借りる条件を満たすためにボランティアを使いすぎるのはよくない、とか、礼拝を朝にすればメンバーが増えるとか、駐車場が一杯になるとそれ以上メンバーが増えなくなるとか、牧師と日曜学校の先生のための事務所スペースが必要だとか、引っ越すとそれだけでメンバーを失うとか、場所的に今の教会は南によりすぎているとか、まあいろんな議論がでた。家主のメソジスト教会との関係も「家族のような」という人あり、また「家主と借家人の関係だ」という人もあり。
020512(日曜)
ダルマレインの法話は玉光。クシャンティ(忍)について。クリスチャンの家庭では善と悪の区別を非常にはっきりさせるようだ。優しくて同情心があって、怒らず、そしてもちろん正しいことをする、というのが女性の基本的な「期待される人間像」なので、かなり非現実的な存在になる。自分が実際には腹を立てたり、人に意地悪をしたり、冷淡だったりすることがあるという事を認めることから「忍」が始まる。
沙羅のクリニックからもらってきたコピヤーは紙のフィードがうまくいかなかったのだが、押さえばねを一つ調整してなんとかフィードするようにした。これまで使えなかったものが使えるようになったので、いい気分である。母の日で沙羅が外食したいというので、久しぶりにホーホーに行った。このごろレストランで食べないので、たまに行くと味が濃いのに辟易する。
怒りというのは核分裂で飛び出してくる中性子みたいなものだ。小さな集団でなら、外側の世界に八つ当たりしているうちに収まってくるが、大集団の中では外の世界というものが近くにないので、怒った人間に八つ当たりされた人間がやはり怒って又誰かに八つ当たりする、という連鎖反応が起こってしまう。日本でもアメリカでも、よくみると男性、女性それぞれに怒りを表現しないように教育されている。裏切られ、ひたすら暴力を受けるだけでやり返さなかったイエスがスーパーヒーローとしてあがめられ、どのキリスト教会にも彼の処刑に使われた十字架がかざってあるということは、キリスト教の中にも「たとえ正当でも怒って仕返しするのは良くない」という倫理観が強いからだろう。
020511(土曜)
元太の春の最後のサッカー。元太は風邪気味でまずキーパーをやってトンネルをやったりしたが、後になってやや体調不十分ながら速く走り、活躍していた。初心者の子達はぼんやりしてなんか手を抜いているように見えるが、実はどうしていいかわからない場合が多いのだろう。
午後はPTを手伝って、元太の行っている体操ジムの拡張工事の電気配線をやった。商業用なので配線は全部金属パイプ、金属ボックスを使って行なわれる。パイプの中に電線を通す作業は初めてで、おもしろかった。
夜はUU教会で明日美たち中学生グループのCredoの発表。親の中には感極まって泣く人も多かった。明日美が菜食主義になったのは、死ぬことが怖かったということから来ているのだということをはじめて知った。
このごろ本当に、言葉を扱うよりはものを扱う方が好ましい感じがする。特に翻訳や文章を書くのがおっくうだ。フィーリングというのは、探って言葉にしてそれから行動に移すなんていうプロセスの中で硬直してしまう。
020510(金曜)
ラクス(漢字知らない)の布の裁断をやった。在家弟子になるとこれを首から下げることになる。自分で作るのがしきたりらしい。
020509(木曜)
ダルマレインに加わったHRさんはシャーマニズムをずっとやっているがシャスタでも5年修行している。両刀使いという点でいろいろ聞いてみたいことがある。
元太は今日も休み。夜、スクラブルという単語つづりゲームを明日美、元太と3人でやった。ちゃんと最後までできてとてもおもしろかった。
EMのところの壁塗りは、乾いた壁の凹みを捜してそこに粘度を埋めて平らにする作業。凝りだしたらきりがないが、だんだんなめらかになっていく壁を見るのは楽しみ。
020507(火曜)
久しぶりにビジネス通訳の仕事をした。裁判所と違って、わからなければ聞き返せばいいので簡単だ。
ゴーカートはカーブで2.5〜3Gの遠心力がかかる由。これはF1の3G強についで大きい。他のスポーツカーレースとかは1〜1.25Gくらいというからゴーカートのすごさがわかる。あの地面すれすれの車体でなんと200キロ近いスピードが出せるらしい。車体重量80キロに40馬力くらいの強力なエンジンを載せているためらしい。重心が低いから走行時に横転することはないが、2台のゴーカートのタイヤ同士が接触すれば片方は吹き飛ぶ。それでもそんなにたいした怪我はしないのが普通だそうだ。
020506(月曜)
元太は珍しく熱を出して学校を休んだ。おとなしくソファに横になってドラゴンボールとかハーディボーイズとかを読んでいる。しょっちゅう熱を測って報告してくる。
UU教会がどこに移るべきか、あるいは今の場所にとどまるべきか、いろいろ私も考えたが、とりあえず我々の財力で無理なく運営できるような場所にすることがまず第一だと思えてきた。私たちが入る前から、牧師を雇ったためにその費用を捻出するために会員を増やすという運動を続けてきたのだが、結局思ったほど増えなかったのでここ2年続けて予算がきつかった。牧師のKTはいい仕事をしていると思うが、我々に彼女をキープできるだけの余裕があるのかどうか、が問題。
020505(日曜)
玉光に最近のうっかり、ぼんやりムードのことを尋ねてみた。「どうやらTransitionを経験しているみたいね」と言われた。自分でもそういう感じがする。思考による結論から行動するよりも、音を初めとしてまずその場に注意を払うことから起きてくることを信頼するというふうに変わってきつつあるようだ。論理的思考が悪いわけではないが、論理はまず現実を区切って小さな区分にしてからでないと使えないから、残りの世界は暗黒のままである。その暗黒に対応するためには今この瞬間この場所に「いる」しかない。
今日は花祭りで仏陀の誕生日を祝った。ベイビー仏陀が甘茶の池の中央に立っているのを覆う天蓋がみなの持ち寄った花で覆われる。ポートランドの今の時期はしゃくなげ、ドッグウッド、クレマチス、チューリップ、ライラック等、花盛りだからちょうどいい。
UU教会は子供の日にちなんで折り紙なんぞを子供たちのクラスでやった。かぶとの折り方がわからなくてインターネットで調べた。その後予算ミーティングがあり、出費を減らすために別の場所に移るかという話を議論。いろんな意見が出てとてもまとまらない。今間借りしている教会は同性同士の結婚式をやらせてくれないからだめだ、という意見がおもしろかった。私自身は特に強い意見なし。うちから近い方がいいし、あまり家賃が高くない方がいい、という程度か。
020504(土曜)
会社で働くかもしれない、という可能性が出てきた。若いときならまっぴらごめんと思っただろうが、今回は「おもしろそうだな」というのが第一感。日本の機械をアメリカの企業に設置するのをサポートする仕事だから、通訳的な面と実際にものに触るのと両方できる。
木曜の夜、RTのところまで車で行ったとき、信号でうっかり後進したり、曲がるつもりの交差点を知らないうちに通り過ぎていたり。考えていることと身体が実際にやることの間に齟齬がある。心と体が一致しないとき、その分裂の間の橋になるのがいいようだ。片方だけを選ぶことはできないのだから。
020501(水曜)
朝6時にダルマレインで坐る。朝食、ダルマハウスの掃除と洗濯、昼食、道明と無情説法を読む、家に帰って小学校で元太のサッカーの練習。夕食を作り、食べて、ダルマレインのクラスへ。今日はチベット仏教のエリック。カトリックのトラピスト修道院から破門されて、そのうちチベット仏教に行った人。あたたかくてユーモアがあるのだが私はどうもなじめない。
020430(火曜)
正法眼蔵の空華では、眼病の人が空を見ると花が見えるが眼病が治れば花は消えるという古い教えをひねって、空華が見えたらそれがそのときの現実なんだというようなことを言っている。つまり、何かを経験しているときに、「いや、これはまぼろしだ、本当はこうではないはずだ」なんていう余計なことを考えるな、ということなんだろう。
昨日の続きだが、強い感情の表現に直面すると私は「この人はこんなふうにふるまうべきではない」とか「自分はもっとこんなふうに感じるべきだ」とかいうふうな思考で自分の過敏な神経を守ろうとする。
020429(月曜)
元太は家を見るのが最近の趣味。物の形そのものを鑑賞するという面は私にはあまりない。私は直観派。直観というのは見たものや聞いたものを何かの表象として受け止める。翻訳というプロセスはそういえば直観的かもしれない。元太は形に興味をもち、また良く憶えているが、本を読み始めたのはけっこう遅かった。ピアノも指の動きで覚えてうまく弾くが楽譜はまだ読んでいない。つまり感覚派なのだろう。
去年の秋から久しぶりに裏庭に毛布をしいてねっころがった。ピンクのドッグウッドの花(本当はがくだろう)と緑の葉を透かして青空を見上げる。この、見上げるという感覚が良い。地面の近くにいて上を見上げる。
私は他人の感情の激発への耐性が低い。土曜の試合でうちのチームの少年が一人足を踏まれて怒って泣いたり、元太が怒ったりでかなりこっちの神経が参ったようだ。こういうことがあまり気にならない人も多い。私は大体強い刺激を受けると回復するのに時間がかかる。痛覚も人一倍敏感だ。なんか現代の大勢はどんどん刺激の強度を上げていこうとしているようで、私みたいなのは時代に合わないのかもしれない。
020428(日曜)
昨日は60マイル以上離れたフッドリバーまで行って元太の試合。がっちりした体格のメキシコ系の少年チームに苦戦。元太は後半獅子奮迅の働きで何度か相手の固い守備陣を突破したが得点には至らず。彼がこれほど攻撃に専心するのは見たことがない。彼はいちいち指導を受けるより試合でプレッシャーを感じたときのほうがよく働ける。
今朝ダルマレイン。香厳の法話を聞いていてぴんときたことがあったのだが、すぐ忘れてしまった。禅の師匠は先ず最初に悟りが得られるといっておき、つぎに何も得るものはないと警告する。
有名なデカルトの「我思うゆえに我あり」は「我」の存在を前提しているところがおかしいといい、「思いがあるから存在(Being)がある」といえばもっといい由。
明日美の日本語スピーチコンテスト。日本領事館の主宰らしい。作家になりたいというテーマで2分半やったのだが、なんと優勝して英和・和英の電子辞書をもらってしまった。バイオリンのときと同じで舞台度胸が会って落ち着いて見える。
UU教会はサラが読んだDances for Universal Peace。老若男女が輪になって簡単なステップと単純な歌。これはなかなか気持ちよい。
020426(金曜)
NFタイプ(感覚より直感、思考より感情で動く)はスピリチュアルにはハーモニーをめざすという先日の話について考えている。商売としては仲裁役がいいのかもしれない。Mediationというのは職業として成り立つものらしい。法廷まで行かずに揉め事を解決するための手段としてけっこう需要はあるようだ。
サッカーのフィールドがまた変更になった。開催側はウェブでいつも確認しろとか言うのだが、2,3週間のうちに2度も3度も変更されては間違った時間に間違った場所に行く人が出てくるのは避けられない。
020425(木曜)
今朝はEMの泥塗りの手伝い。腰のやわらかいへらを使うとわりとなめらかに表面を仕上げられる。どのくらいの泥が壁についているか、とか力の入れ具合や角度によって違いが出る。慣れてきたらけっこう満足感を得られそうな作業だ。
午後、RUと会った。父の日のサービスの準備。彼は娘にアルバイトさせなかった由。肉体労働ははしたないという感覚があったらしい。彼はウルグアイ人だが、人種的にはスペイン人だそうだ。マイヤー&ブリッグスの心理テストでRUも私もINFP。超少数派である。彼の本棚にはHistory of Private
Lifeとかローマ帝国衰亡録とかフィリップ・アリエスの子供の誕生とか、私と興味の一致するものがみられる。
夕方、うちでサラがやっているお産のクラスで父親たちにお産を控えて心配なことについて男だけのグループで聞くというのを私が担当した。男だけだと女性と一緒では出てこない発言も出てくる。司会者としてまあまなんとかできたと思う。
自然科学も無我を志向している。般若波羅密経には菩薩が操り人形のように自意識なく行動すると書かれているが、自然科学的に人間を見た場合、自意識なんていうものは出てこない。それが仏教の説く理想と同じなのはおもしろい。
020424(水曜)
ダルマレインに洗濯に行っているとき、YFから「日本語を教えたらどうか」と言われた。そういう考え方もあるわけだ。
春爛漫。道を歩いているだけでハッピーだ。
人と話していて、自分にはしっかりした自己がないと感じる場合と何か抵抗感が内側から出てくることがある。この辺と仏教の無我との関係を探っている。
020423(火曜)
技術移転の関係で弁護士とオレゴン州政府の人に話を聞いた。まだ具体的には何もないが、とにかく種をまいておいて、と考えている。
Diamond
Sutraのクラス。「自己」がないというのはどういうことか。衆生(Beings)も存在しないのだから菩薩も救う相手がいない。それでもめげない人が菩薩になれるとか般若波羅密の八千行の方に書いてあった。自分と相手との間に分離がなければ慈悲が働く、と誰かが言った。自分と相手との間に相互作用があるという点ではもちろん分離していないが、それでもやはり自分と相手の区別があれば同じことではないかという気もするのだが。Spiritual
Growthという言葉は完全な知恵(般若)が成長しないことを考えるとおかしいのではないか、と私が質問したら香厳が「知恵そのものは変わらないが、方便に熟練することはできる。」と答えた。なるほど。
020422(月曜)
このところ翻訳の仕事がないのでスリル満点である。私はロッククライミングみたいに危ないことをやってスリルを味わうにはなまけものすぎるので、こうして収入がない状態でスリルを味わう。こういう状態でもなければ行かないようなところに行き、こういう状態でなければ会わないような人と会う。条件のいい仕事をしているときよりずっとおもしろいという結果になる。
身体障害者の生活を便利にするための機械を作っている小さな会社でいろいろ工夫できたらおもしろいだろうな、と思うのだが、実際にそういう会社を捜すとなるとどうも手がかりがない。
020421(日曜)
ダルマレインまで歩く。今朝はサンガミーティング。近所の養老院が売りに出ていたので、それを買おうかという話がでていた。そのことに関する説明。禅堂と本堂の両方が持てる、とか同じ建物に住み込みの修行者も住めるとか、いい点がある。
UU教会はマイヤー&ブリッグスの性格テストと宗教的求道のスタイルの相関という話。統一を求めるのはNT(直観と思考)型、例は仏陀とバックミンスター・フラー。献身する人はSF(感覚と感情)型、例はアッシジのフランシス。働く人はST(感覚と思考)型、例はモーゼ。ハーモニーを求める人はNF(直観と感情)型、例はタゴールとイエス・キリスト。私はNF。
パレスチナ人と結婚していた女性と話したら、シャロンはレバノンにおける1万2千人のパレスチナ人の虐殺に責任があった(実行したのはキリスト教の私設軍隊)とのこと。どうしてこれがニュースで伝わってこないのか。ヨルダンは唯一パレスチナ人を受け入れた国だが、資源も何もないのでイスラエルと喧嘩することはできない。なるほど。
020420(土曜)
金曜はEMの屋根裏部屋でMudを壁や天井に塗りつけた。日本語ではなんというのかわからないが、Mudは土という意味だ。やわらかい粘土のようなもので、これをシートロックの上に塗ることでシートロックの継ぎ目などのでこぼこを隠すことができる。薄い金属のへらを使って表面をなめらかに仕上げようとするのだが、加減がむずかしい。へらの両脇に深い溝が残ったり、へらの通った跡にあぶくのようなものが残ったり。ラジオでは世相や有名人を辛らつにおもしろく批評するスマックというしゃべり芸の大会のようなものをやっていて、私はちっともわからなかったが、EMとGGは登場する語り手をたくさん知っていて、なんだかんだと批評していた。その跡EMのおごりでおいしいBLTを食べた。
土曜はダルマレインのメンズグループへ。その前にJNを手伝って近所のごみ拾い。元太とNGも。メンズグループでは「灰の道」について語り合った。子供の頃の黄金時代から突き落とされて這い回る時期のこと。私は黄金時代の記憶がなくて一番古い記憶が懐かしい部屋から連れ出されて砂漠のような場所で生活し始める、というものなのだ。ある意味で下のほうで這いまわるほうが私には心地よい。少なくとも地面に触れられるから。
午後はWorship
CommitteeのRetreatでマウントフッドの方の山小屋へ。といってもきれいな家だ。6/1の森の中のサービスではみんなが隠れてじっと耳を澄ます時間を作ったら、と提案してみた。幼い頃の暗い家の中でのかくれんぼの楽しさを思い出した。
木曜のドラミンググループで仕事探しのアドバイスを得た。人と話すこと。誰かを好きになることからものごとは始まる。それから、こういうことがしたいという具体的なストーリーを作ること。
020417(水曜)
水曜は最近朝ダルマレインで洗濯、昼食、道元の無情説法の勉強、それからすぐうちに帰って元太のサッカーチームの練習、そしてすぐに夕食の支度、夕食、さらにダルマレインのクラス、というハードスケジュール。今日はギルダのヴァジュラヤナ修行の話。師との関係がむずかしくなったときのつらさ、鬱病、人を助けたいという14歳のときの誓願。なんとなく好感を持っているがこの人としゃべるのはけっこう難しい。
道元を読んでいて思うのは、日本語は主語というのが必ずしも能動的でないということ。強調したいもの、場面を設定するものが最初に来る。それが主語であるか目的語であるかによらない。「そのみかんは食べなかった。」といえば主語がみかんでないのは明らかだが、文法的には主語でありえるわけだ。
020416(火曜)
昨日の事なんて何も覚えていない。そうだ、日米間の技術移植を扱っているという法律事務所にメールを送ってみた。そういう仕事ができたらいいなと思う。
今日は翻訳や通訳の仕事を探していろんなところに電話。通訳はおもしろそうなコネを作った。翻訳もあるエージェントと実のある話をした。
道元クラス。山水経の続き。自分が歩いているのであって山は止まっているというような理解は純粋経験のじゃまになる、というふうに考えてみた。ただの布切れを見ているだけでは退屈する、という相から、布切れがなにか語りかけているのを聞いて興奮するという相に移り、そしてさらに、布切れは特に何も言っていないけれども、眺めているとぞくぞくするくらい新鮮だという相があるような気がする。
020414(日曜)
昨日は朝から元太のサッカーへ。相手チームの人数がそろわなくて、こっちから3人貸し出して試合。相手チームに入ってもみんなしっかりプレーしていたのに感心。攻撃時の左右の展開が少しできるようになってきた。
午後はUU教会の関係で末期エイズ患者の世話をする施設の話を聞く。話者がシシリアンアメリカンで非常に元気なのにこちらは疲れを感じた。ディスカッションは延期になり、私はただ話を聞くだけではつまらないことに気付いた。エイズで死にかけている人を公立機関が世話しなければならないことはわかるが。
税金の追い込み。これは沙羅の係りなので彼女はかりかりしている。特にここ数ヶ月私の収入が少ないので不安が大きい。
今朝はダルマレイン。玉光と参禅。仕事のない静かな生活が気に入っていることを話したら、PLOWが死の近いことを受け入れた後ゆっくり眠ってから、一日中それまでの人生のいろいろな出来事を思い出して感謝に満ちた気持ちになったという話をしてくれた。その出来事というのは特に大きなことではなく、ふっと感じた幸福感のようなものだとも。
偉大なことを成し遂げようというのは悪いことではないけれど、誰もが取るべき道ではないだろう。
今日のUU教会の方はイスラム教に改宗したアメリカ人女性がイスラムの結婚観などについて話してくれた。女性の権利もちゃんと認められていることを強調。彼女の行くモスクでは信者の間で10ヶ国語が話されていて、例えばアラビア語をイギリスなまりで話すパキスタン女性がいたりする由。ダルマレインは日本の曹洞宗だが日本人は私だけで後は白人が殆ど。それと比べると彼女のモスクはいろんな国のイスラム教徒が集まっているようだ。
聞いていて思ったのだが、イスラム教は結婚とか家族生活について具体的な規定があり、それは拡大家族的な社会制度の維持を目指している。もしかしたらこの点がイスラム世界の近代化を遅らせているのかもしれない。その一方で、アッラーと個人との間には仲介者はありえないという立場は大集団社会に適している。
020412(金曜)
午前中は久しぶりにエイモンの家。ドライウォールが終わっていて、間違って埋め込まれた電灯の取り付け具を掘り出したり、飾りの電灯の取り付けをやったり。あいかわらず、なんかしらんが楽しいひと時を過ごす。
夜、UU教会の父の日のスピーチのことでRL及びCRと会った。CRも13歳の娘がいるので、いろいろ話した。父親としての経験を男同士で話せる機会は貴重だと確認し、メンズグループを始めようかという話になった。
020411(木曜)
オレゴンの地方紙の一面に中東危機の写真が出ている。上の方に、イスラエル兵の夫を失った女性が泣き叫んでいる写真。そして下のほうにはジェニンで破壊された建物の瓦礫の上に立っている数人のパレスチナ人の若者たち。つまり、イスラエル側では人が死んだことを強調し、パレスチナ側では建物が破壊されたが人々はぴんぴんしているというイメージを描いている。実際にはパレスチナの方にもっと人死にが出ていることはほぼ確実なのに。
もっともパレスチナ人の自爆テロは民間人をターゲットにしている点がけしからんとはいえる。イスラエルの軍事行動は少なくとも民間人をたくさん殺すことを狙っているようには思えない。パレスチナ側からすれば軍事力に大きな差があるから、自爆テロくらいしか反撃のしようがないということになるのだろう。
昨日はダルマレインで浄土真宗の若い坊さんが話をした。代々僧侶の家に生まれた日本人だがカリフォルニア生まれで、スタンフォードで博士号を取り、今はオレゴン大学で教えている。いくら修行してもきれいな花が散るのを惜しみ、雑草を嫌う心が残る、しかしその執着に気付く瞬間が大事、というようなことを言っていた。なるほどと思う。仏陀であっても、肉体がある限り悟りには限界がある、肉体が死んだときに悟りが本当に完成する、とか言ってたような気もする。私はこのごろ庭で雑草を眺めているときなんかにふっと「ああ幸せだな」と感じるときがあるが、これはどうも肉体的な衰えと共に頭の回転が遅くなってきて、周りの世界との軋轢を常に生み出す自我もときどき機能しなくなっているからではないかと思う。
昨日はPLOWの葬式。彼女が非常に強い、自由な女性であったという賛辞が多かった。私の見た彼女はいつもなんか暗い顔をしていて、まゆ根をよせているような感じだった。肉体的不調に負けずにがんばってよく坐禅をしていたのは憶えている。どうも私とは全然波長が合わなかったらしい。
020408(月曜)
サラとTabor山まで散歩。木綿のセーターではもう暑いくらいだ。サングラスもしっかりかけていった。途中で、鶏を飼っている家を観察。うちでも飼おうかという話があるのだ。卵が取れるし、畑の虫も食べてくれるかも。
私が生体・機械のインターフェースに関する仕事をできないかなという話。動く義手、義足をはじめ、このごろやたら多い感じの人工膝とか、おもしろそうだな、と思う。どうやってそういう会社を見つけてしかも入れてもらうかはまだ全然わからんが。
今年の庭は去年の「しおれたら水をホースで少しかける」というやり方をやめて、水撒き器を設定して数十分じっくり一箇所に水をまき、土の深いところまで水が達するようにしようと思う。そうすれば、根が深く伸びて、多少乾燥が続いても大丈夫だし、養分もたくさん取り入れられるはず。
イスラエルはコリン・パウエルが来る前にパレスチナを完全に粉砕して二度と立ち上がれないようにするつもりのようだ。アメリカ側もちゃんと何日かそのための時間をイスラエルに与えるようにしているようにみえる。これじゃパレスチナ人が自爆テロに走るのも無理はない。
020406(土曜)
なんかやたらいらいらする日だった。体調が悪いということもある。
春のサッカーの初試合。みんな元気でプレーしていた。ボールを追って左右によりすぎるのが気になる。例えばハーフで3回はボールと反対の方向へ展開するように言ったらどうかな。
UUとダルマレインの高校生たちの夕食会がようやく実現。ポールが「仏教とは転生を信じているのか?」と聞いていた。
生まれて初めてオペラ見物。『Consul』というやつ。政治犯の妻が国外に出ようとするのだが領事館がなかなかビザを出さないという話。人の心を書類でしばることはできない、とか言うのだが、そんなことが問題じゃないだろうが、といいたくなる。50年代の作品だそうだから、それでも良かったのだろうが。
020405(金曜)
バンドと大集団に関するメール発言のカード化が一応終わった。これを大きな紙の上に並べて二次元展開し、それを元に本を書く予定。
ジャックとロイが訪問。MSという女性が洞察の鋭い発言で人々を助けながら、自分のことになると判断が狂い、晩年の著作が夫への罵詈雑言に満ちるという結果になったことについて話していた。人の助けを受けるというのも才能なのかなと思う。
020403(水曜)
ダルマレインで洗濯、昼食、そして道明と『無情説法』を読む。彼女は一つ一つの言葉を辞書で引いて詳しいワード文書にしている。感心。「縁起」がDependent originationのことだとわかってちょっとびっくり。後者は仏教の四つの公理への無知から執着や生死が結果として出てくるのを12段階に分けて説明するものだ。前者は現代では縁起がいいとか悪いとかいうふうに使うだけで、宗教的な意味はなくなっている。こういうふうに、仏教用語が日常使われるようになって意味が変わってしまったものが多いので、「あ、知ってる」と思っても油断できない。
サッカー春の初練習。新しく入ったジョー、でもどりのクリスを含めて12人が来た。みんな素直に練習。サッカーは乗り気でなかったが、子供たちがやっているのを見たらこれもいいかなとまた思い始めた。
020402(火曜)
UU教会の高校生が主宰する礼拝を私が計画していたのだが、ダルマレインの高校生とからめてやろうという企画がなかなか進まず、後3週間あまりしか時間がないという状況になった。電話やメールのやり取りが思うように進まないし、相手の方があまり乗り気でないのを無理に押してきたような感じもある。ある程度は押さないと何も起きないということもあるが。催しを自分のイニシアチブで準備するという経験はあまりないので、勉強になった。あまり軟弱では何も進まないし、押しすぎれば受動的抵抗が強くなってやはりだめ。
道元クラスは「山水経」。山も歩いているってどういうことなのかな。山道を歩いているときに、自分が歩いていると見るのと山が歩いていると見るのとどっちもありえるということかしら。