オレゴン日記---2000年1月〜3月

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[日記目次]


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 サラは5年生の日本旅行のためのオークションその他で一日留守。
 元太のサッカー。久しぶりの芝生にとまどい、交替要員もいなくてしかも相手がすごく強いので、みんなへばったが、よくがんばった。こんな試合ばかりなら上達も速かろう。マックスはゴールキーパーとして横っ飛びなど進境をみせた。相手チームが元太のことを「あのちっちゃいやつがベストプレーヤーだから気をつけろ」と言っていた由。
 元太をキャレンにあずけてジョーダンの誕生日パーティ(これはインドアサッカー)につれていってもらい、私は明日美をサッカーの試合につれていく。好試合。明日美は守備でいい動きを見せ、まずサイドラインまでドリブルしてから方向を変えて攻め上がり、最後にフォワードにパスするという教科書のようなプレーをやってのけた。フォワードのときはまだ球離れが早すぎる。フォワードはプレーの最後にシュートというもっとも集中力を要する瞬間が来るので、エネルギーをセーブしておかないとここぞというときに力が入らない。この辺は相手の動きに対応すればいい守備とは全然違う。


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 朝、二郎氏と一緒に蛭川氏を空港に送った。二郎さんも私と同様、小さい頃に外国経験をしている。生まれてから18カ月までカリフォルニア、小学生のとき3年間インドネシア。帰って仕事。


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 朝、蛭川氏とMt. Taborを散歩。ゆっくりとしたペースで互いの興味のあることについて話した。日本人とこれほど腹蔵なく話せるのはうれしい。プロセスワークの学校の建物を見学。ニュールネッサンス書店で蛭川氏またも興奮してビデオ2本と数冊の本を買う。ビデオは講義で学生に見せるため。これだとあまりしゃべらなくてもすむし、学生も喜ぶとのこと。本は全部読むわけではないが、文章を書くときに引用するため。『Exploring the World of Lucid Dreaming(Stephen LaBerge, Ph.D. & Howard Rheingold)という本を蛭川氏に勧められて買った。夢だと気付きつつ夢の世界を探検するためのテクニック。なぜか、このテクニックを学ぶときが来たという感じがした。
 夕食はうちで。プロセスワークのニコルさん、ジョージさんも来た。ジョージさんの海岸の家に遊びに行こうかなと思う。夜、サラ、蛭川氏、二郎さんと4人で話す。両氏の使命感にこちらも感じるところあり。


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 isetani二郎氏と空港に行き、蛭川氏を迎えに行く。二郎さんとも初対面である。トライブというメーリングリストで蛭川さんとはかなりやりとりしたのでよく知っているような気がするが、ご本人に会ったのは初めて。人類学者で、最近『性・死・快楽の起源: 進化心理学からみた<>(福村出版)という本を出されたばかり。2月にアマゾンに行ってきてシャーマン画家のアマリンゴさんのところに滞在した後、奥地に行ってシャーマニズムを体験してきた。二郎さんはポートランドでプロセスワークを勉強している。プロセスワークというのは、ユングの心理学を動作や身体的なものにまで広げて、さらに人間関係の実践的な技術に磨いたようなものであるらしい。私もユングは好きだったし、ポジティブな人間関係はある程度技術の問題だと思うから、興味を持って彼の話を聞いた。蛭川さんは寡黙。
 蛭川さんはPowells書店が気に入っていろいろ人類学、心理学などの本を見ていた。夕食は大串一家と蛭川、伊勢谷両氏でOld Wife's Tale。蛭川さんはうちに泊まる。


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 映画館で「American Beauty」を見た。一見普通の中流アメリカ家庭で実は夫も妻もすっかり精神的に消耗しているのだが、夫が娘の友達にロリコン的に興奮したことをきっかけにいろいろほぐれてくる。隣家に越してきたビデオ狂いの成年は娘のジェーンをビデオで撮影して気味悪がられるが、しかしただのオタクではなくて、そのうち正面から口をきいて彼女の心をつかむ。「世界の美しさに耐えられなくなってハートがつぶれそうになることがある」という感受性を持っている。


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 昨日に引き続いてビデオ。今日は「When a Man Loves a Woman」。女性の方はメグ・ライアンがやっている。とても茶目っ気のある楽しい感じの女性と結婚したら数年して彼女のアルコール中毒がひどくなって、という話。これもリハビリ施設が出てくる。それとアラノンという、アルコール中毒者及び中毒者を家族に持つ人々のサポートグループのことが出てくる。「酔ってないと怖くてなにもできない」という彼女は中学校のカウンセラーである。泥酔して帰宅し、6歳くらいの娘をひっぱたいてシャワーに入った後気を失って倒れる。その後施設に入るわけだが、施設から出た後今度は夫との関係がおかしくなる。最後はハッピーエンディングだが、むずかしいなあ、と思う。こういう人はけっこう他人の相談相手としては優れている、というところもちゃんと映画で表現されている。


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 元太はまた元気なくなって一日中うつらうつら。私は痰が出始め、鼻もまだ出るしどうも依然としてぱっとしない。Harry Potter2冊目を読んでしまった。後半は元太に音読。結局2人でごろごろと夕方まで休んだ。
 沙羅の期末試験が終わったので、「Water Dance」というビデオを見た。下半身麻痺になった作家のリハビリ施設での経験をもとにして本人が台本を書いて映画にしたもの。ガールフレンドとセックスしていもとにかく何も感じないというのは苦しいだろうなあ。中年暴走族の白人、薬の売人かなにかだったらしい黒人との友情の芽生えがなかなかよし。


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 Harry Potter1冊目を読了。沙羅が子供たちに読んでいたやつで、世界中で猛烈に売れているという児童向けのファンタジー。大人がひそかに読むのでベストセラーになったのだという。テンポが速い。次から次へと何かが起こる。ハリーの運命も僅か数ページの間に絶頂とどん底の間を行き来する。ミステリ的なプロットの犯人探しが魔法使いの学校という設定の中で進行するのだが、叙述は全てハリーの目を通じて行われる。ハリーなしで進行する場面は皆無だ。ハリーの眼前で起こらなかったことは、それについて誰かがハリーに話すという形で伝えられる。つまり、ハリーなしで2人の人間が会話をかわす、とか何かする、ということはこの本ではないのだ。これは児童向けの物語の特徴なのか、作者の作戦なのか。この手の本はめったに読まないのでちょっとわからない。
 喉のがらがらと胸の辺りのもやもやと頭のぐじゃぐじゃ、とにかく体調がよくないのだが、翻訳はいつも通りより少し多いくらいやっている。締め切りは締め切りだから。いつもなら昼寝でも横になってすぐにやすらかに休めるのだが、身体の不快感があるために休みにくい。Harry Potterをつい読んでしまうのは、読んでいる間は体調の悪さを忘れられるからかもしれない。風邪を引くと妙な集中力を発揮することがある。一種の精神的な視野狭窄かな。
 元太と明日美は同級生のクリスとタラリー(彼らも姉弟)が遊びに来た。明日美は750本のつまようじで立体構造を作るという宿題に苦しんでいる。ただ一種類の多角形だけを使って構造を作れというのだ。明日美はみんなが三角形にするから自分は台形をするのだというのだが、長さがあまりそろっていないのできれいにできないし、台形を立体的に組み合わせるというのは容易ではない。結局、平面構造を作ってそれをただ重ねていくという手法を選んだ。先生が考えているのはそういう構造ではないだろうが、自分で考えたことだし、ちょっとおもしろいアイデアだ。


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 47才の誕生日だが、体調悪いし仕事も休めないし、沙羅は期末試験で忙しいし。夕方河童屋でうどんとか厚揚げとか味噌ラーメンとか食べて祝った。


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 受戒接心の最後のセレモニーに行きたかったが、体調悪くて断念。しばらく起きていると頭の血が足りないような感じになってくる。翻訳したり、横になったり。


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 朝10時半の坐禅に参加。参禅しようと思ったら、受戒する人が先だとかいわれて後に回され、妙に腹が立った。香厳と向かい合って気がついたのだが、昨日の働きすぎでむしゃくしゃしている部分があったのだ。朝うちで坐ったときにはそんなこと気がつかなかったが。香厳は「(働きすぎて坐禅の心が保てないのは)普遍的な公案だね」と笑い、「修行だけに集中できる人は深く行くけど、広がりという点では遅れる。仕事をしている人は広がりを保ちつつ少しずつ深めていけばいい」というようなことを言っていた。
 あまり無理しないことにした。第一ちょっと病気っぽい。夜喉が痛くなってきた。元太は夜寝るときになって40度くらいの熱を出した。
 フルートのパッドの出ているカタログがやっと届いた。修理の道具なんかもあって管楽器全てカバーしているから1センチほどの厚さだ。どれが私の必要なパッドなのか、ちょっと頼りないが、まあ聞けばわかるか。


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 夢に動物が出てくる意味についてジャーニーしてみた。どの動物もわりとおとなしい動物である。野性というのはライオンみたいな荒々しいものだけでなく、道端のすみれもやっぱり野性なんだと河合隼雄が書いていたのを思い出した。
 翻訳、がんばらざるをえず。


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 ダルマレインでは受戒接心が始まっている。夜の坐禅に参加。アニマルスピリットが動物の夢が多いことについてその意味をジャーニーで問うようにせっついてきた。長く坐っているとジャーニーと似たようなスピリットとの会話が起こることがある。


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 フルートレッスン。今日はよく音が出た。夜の間にパッドのシムがなじんだのかな、と思った。どんどんいろんな曲を吹いてみろ、高音のEやFも試してみろ、といわれた。といって、どうやって高音を出すかについては相変わらず「とくべつなことはするな。自然に出る」。


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 フルートの低いCの音がどうも出にくいので、多分パッドのどれかが漏れているのだろうと、小ネジで調節できるところをいくつか締めてみたら、しばらく低音域全部がスカスカ音になってしまって冷や汗をかいた。いじりすぎは危ない。左親指のキーのパッドの下のシムを薄い紙に変えてまあなんとか落ち着いた。キーを押した状態で、薄い紙をパッドとキーホールの間に差し込むと、ゆるいところが発見できることがわかった。


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 香厳の法話は「Do not kill」という戒に関して。昔は隣村の人間だってもう「よそ者」だった。歴史的に次第に「我々」の範囲が広がってきて、100年ほど前についに人種の壁を越えて世界中の人間を自分達の仲間と見做す思想が出てきた。ダルマレインの住人が菜食主義であるのは、「我々」の中に動物も取り入れる意味でである。これは「殺さない」ということではない。植物にだって命はあるのだから。利己主義の「己」が拡大したということだ、考えて欲しい。とか彼は話していた。
 質問のとき、「一緒にいるとどうもネガティブに評価されているような気がする人がいて、その人の近くにいたくない、と昨日言ってしまったのだが、これはつながりを拒否するという意味でDo no killの戒を破っていることになるのか?」ときいてみた。香厳は「幹夫のこのケースでは、明日の前進のために今日は退却するのがいいと思う。自分を守る壁なしにその人と会えるまでは。」と言ってくれた。


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 SFの奥村正博師から3冊の英語の禅の本が届いた。彼が愛読する正法眼蔵随聞記を彼自身が訳したもの、内山老師が沢木コウドウ老師の言葉を編集したもの。それと道元禅という本。早く読みたい
 ハイディとジョンのところに河童屋の寿司を持って行って「料理の鉄人(Iron Chef)」を見た。2年前の放送のやつだが、なかなかおもしろい。でも食べながらテレビを見るのはどうも気が散っておもしろくないな。


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 姪からEメールが来たのだが、なんと携帯電話から送っていて、だから60字までしかできないという。日本は進んでいるなあ。彼女は私が母に頼んだポケモンカードをわざわざ買って母の家まで届けてくれたのだ。


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 このところ午前中は技術翻訳はしないで、Eメール、香厳の本の翻訳、散歩等をすることにしている。散歩はつい最近まで思いつきもしなかったが、水仙や紅梅が咲いてきて外が楽しくなってきたらうちにこもっているのがもったいなくなってきた。


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 夢分析のジョエルは、私が時間超過の件で怒って書いた手紙について「こういうふうに書かれれば悪い気がしない。ちゃんと私の気持ちのことも配慮してある。」と評価した。彼女が悪く取らなかったのは良かった。時間については、1時間15分でもいいがそのときは始めからそのつもりでやりたい、と言っていた。私のことを評価しない人間との付き合い方について話した。


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午後ディーナとフルートレッスン。吹くのではなくてただ空気を振動させるだけだと言われて「??」。フルートの口を当てて、口を閉じたままハミングし、そのままその音程を吹くという練習も。
 明日美のバレーレッスンの間、ローレルハースト公園のテニス壁を使ってニックと元太がパントキックの練習。初めて壁を越えたとき元太はうれしそうだった。
 夕方カヤとナイジェルが来て夕飯、そして寝袋。10時半ごろエリックとジャネットが迎えに来た。子供が大きくなるとこういうことが簡単にできる。


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 香厳の法話は、お釈迦様の最後とアナンダとマカカショウ。アナンダは知識と実用性を象徴する、マカカショウはdiscipline。しかしこの言葉どうやったら日本語になるのか? 香厳の本を訳し始めたんだが、practicedisciplineを訳し分けるのがむずかしい。考えてみるとどっちも日本語にはない言葉だ。
 夕方、Old Wife's Taleへ。明日美が誕生日のディナーはここにしたいと行ったので。ジャックが来たときはたいていここに行く。彼はここのハンガリアンマッシュルームスープが大好物なのだ。パプリカとディルで風味を付け、たっぷりのサワークリーム、バター等でボリューム満点。私も好きだけど、スプーン3杯でもう十分という気になってしまう。ジャックが例によってどんどん一人でしゃべる。彼は殆ど内山老師みたいな自己本意の人で、通電中の電線みたいな難しさがあるが、発言は全て自分の意見ですっきりしているところはある。平気で前言を翻すのも現在に集中する禅僧みたいだが、矛盾していないと言い張る所はやっぱりアメリカ男性か。


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 我々4人とジャックで元太のインドアサッカーを見に行った。ゴール前をよぎってドリブルしながら後ろ足でボールをころがして得点した。元太のフェイントは前は自分の動きを遅くするだけだったが、最近は相手がだまされるケースもでてきて自信がついてきたようだ。
 その後明日美のコーラスのコンサート。けっこうややこしい歌を楽譜なしで歌っている。夕方ジャックとサラはイングリッシュカントリーダンス。彼らの一家はサラが小さいときからフォークダンスなんかによく行っていた。私はうまくできないし、あまり好きでもないので、ジャックが来たときはたいていダンスがあるときを選んで2人で行く。
 夜中にサラが帰ってきて20分ほど布団に入っていたと思ったら、近所のミシェルの妹のスーアンから電話。ミシェルは朝から産気づいていたのだが、助産婦のモリーンは今夜はないだろう、みんな明朝に備えて寝よう、といっていたのだ。サラはすぐかけつけて、ミシェルの家について10分後に赤ん坊が生まれた由。モリーンは間に合わなかったので、サラが出産をとりしきることになった。無事に生まれて、午前4時ごろに満足そうな顔をして帰ってきた。


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 空港まで義父のジャックを迎えに行った。うちの玄関から到着ゲートまで30分で行ける。チェックのところで、小さな布切れをバックパックにこすりつけてその布切れを測定器にかけていた。麻薬か何かのテストかな。初めて見た。
 


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 元太は学校から帰ってしばらくしてひどく機嫌が悪くなり、2階でしばらく泣いていた。サラが聞いてもなぜなのか自分でもわからないという。こういうときはこっちもいらいらする。サラ自身も卒論の追い込みでいらいらしていて、ちょっとしたことで鋭いとげのあることを言う。どこまでが許容範囲なのか、どこまでいったらたしなめるべきなのか、むずかしいところだ。
 ついに香厳の「Zen in the American Grain」の翻訳を始めた。まずは1章訳して知人に見せてみようと思っている。英語で読むとわかりやすいのだが、日本語に移すと妙に回りくどくなったり、語調が乱れたりで、どうも気に入った訳文にならない。私の翻訳技術は主に技術翻訳で培われたものだから、人間的なことを平明に書くということがすぐにはできないのはまあ当たり前か。


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 ディーナとフルートレッスン。彼女はアレキサンダーテクニックの先生で、ミュージシャンを専門に教えている女性の書いた本を持ち出してきた。私は姿勢(頭が前に落ち、首が凝る)と声(高音を出すと喉が痛み、低音は出ない)のことで、アレキサンダーテクニックを試してみたかったので、その本を買ってみることにした。
 2年前にサイキックのドンが「SCHOOL」が幹夫にとって大事だと言っていたが、最近私がやっていることは学校という建物には行かなくても中身は学生に近くなっている。禅センターで坐禅と仏教を学び、スーザンからシャーマニズムを学び、ディーナからフルートを学び、ジョエルから夢分析を学んでいる。


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 シャーマニズムのスーザン先生とのセッション。接心中に自分自身の若い頃の分身、子供の頃の分身と会話するような感じがあって、彼らを下方世界に招待したらとても幸せそうだった。ジャーニーと坐禅は、深く入っていくという感じが共通しているのだが、坐禅中にシャーマニズムの下方世界がでてきたのが興味深かったので、この体験をタイプしてスーザンにみせた。「これはInner Child Workね。」と言われた。成長の過程で心理的に傷つくと、自分の中のある部分がそこで成長を止めてしまう。大人になってもその部分だけは子供のまま残る。そして、自分でも理解できないような行動を引き起こしたりする。大人としての自分がその子供と相対してその子を安心させ、その子の望むことを自分の生活の中にある程度取り込んで行くことでやがてその部分が統合されてくる、といったことらしい。青年の幹夫はすごい心配性で、なくすのがいやだから何も持ちたくない、という哲学を有している。どうしても持たざるを得ないものは嫌悪する。そうすればなくしても心が痛まないから。子供の幹夫はいろんなことを考えてそれを人とシェアするのが好きだ。そして、注目を浴びるのが大好き。


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 一昨日たまっていたメールの中に従姉の良子さんからのがあった。初めてである。つい最近メールを始めた由。優子おばさんと母はわりとよく会って話をするのだが、たいていは良子さんが母の家まで運転してきてくれるのだ。今回は会社で使っていたマックをゆずってくださるという話。マックが母の家にあれば、メールもできるし、日本で翻訳することもむずかしくない。
 接心で出会った日本人の僧侶である奥村正博師にメールを送ったら、その日のうちに丁寧な返事をいただいた。奥村さんは内山興正老師に学んだ方だが、この内山老師という人は日本という国を、伝統との垂直なつながりと西欧との水平のつながりの療法を持った貴重な位置にあるとみておられた由。日本とアメリカをつなぐのは私のテーマでもある。


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 接心から帰ってきた。接心の最初の2日くらいは環境と日課に慣れるのに苦労するが、落ち着いてくると、思考や感情がくっきりみえてくる。そういうとき、「これはだめ」とか「これはいいぞ」とか価値判断をするとせっかく形をとりかけていたものがくずれてしまう。師匠たちと個人面接(数分)することもできるので、坐っているときの心がけや、浮かんできた思考や感情について質問も出来る。チョウゼンというZen Community of Oregonの先生は私とは初めてなのにとても適切に答えてくれた。


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 今日から接心。Still Meadowという郊外のretreat centerに行く。一週間である。沙羅は子守の手配で大変だったが、一応近所、友人でなんとか埋まった。


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 ダルマレインまでローラーブレードで行って、座布を買った。40ドル払った。名前は何にするのかと香厳にきかれた。彼は「クッシー」ではどうか、とか言ってたが、これはやっぱり自分で付けるぞ。
 夜はレーズン・イン・ザ・サンとかいう50年代の黒人の家庭の話。夫がでかい夢を見て、自分の母親のなけなしの1万ドル(彼女の夫の保険金)を結局友人にだましとられるという話で、私はこの男に共感できない。あまやかされて現実感覚が狂っている。子供の夢を大事にする、ということが金科玉条みたいに言われるが、誰もが医者やスターや実業家に成りたがるような社会はどっかおかしいのじゃないか。


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 ディーナと初めてのフルートレッスン。持ち方、姿勢、指の位置といった基本的なこと。唇にこだわるな、という。フルートの中の空気柱と身体の中の空気柱の両方が共振箱となって音が響くのであり、唇は単なる接点である。鈴木メソッドの本に書いてある唇の操り方は忘れてしまえ、と言われた。ディーナのはいわばフルートのベルカントスタイルなのだそうだ。私も響きを良くするのが主な興味だから、うれしかった。レッスンを終わって、2人とも満足の笑顔。


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 スーザンと久しぶりにセッション。今回は、夢の中で私の中に飛び込んできたスピリットを改めてジャーニーでretrieveした経験について、ジャーニーのテープを英語にして起こしたのを彼女に見せて相談した。質問の仕方があいまいだったのを指摘されたが、結果的にはうまくいったジャーニーだった。


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 土日と沙羅が催眠療法のワークショップなので、朝は元太を連れてロイドセンター。またポケモンカードを少し買った。ポケモングッズはいくらも売ってるが、カードは少ない。


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 水曜朝はJoell Hymanさんと夢分析。最近は心の故郷に戻ったような夢があったりして夢の世界の進展がめざましい。ただこの日は最後に彼女が時間のことで変に取り乱して「今まで15分、20分と長すぎたことがあった」とか言い出すので、そのときはなんかかわいそうになってああこっちが悪かった、と思ったが、後で考えてみたら時間の管理は彼女の責任である。95ドルも払っていつセッションを終えるかまでこっちの責任にされたのではたまらない。怒って手紙を書いた。
 その後禅センターに行って香厳と話した。例の永平寺のしごきの件。彼によると、曹洞宗の世界に旧勢力と新勢力があって、香厳(49)より上は旧が多くて下は新が多いという。新勢力はもっとソフトなアプローチをするが、そうすると旧勢力の危機感が強くなって反動が強くなったりする。この本の青年が修業した89年は反動の強かった時期ではないか、という。総持寺の現管主は71歳だが新勢力の人だという。
 香厳の本を翻訳したいということも話した。もちろんかまわないという。ホームページに載せる件は、出版社がどう思うか、ということがあるが。実は私はここでの自分の修行についてもホームページに書きたいのだが、いざ書くとなると、経験としてわかっているつもりのことでもうまく言葉にならない。そう言ったら、経験的にわかるのと言葉として表現できるのとはかなり違いがあるが、表現しようとすること自体よい修行になる、と言ってくれた。
 元太が近所の年上の少年にポケモンカードを取られたらしい。まず「見せてくれ」といって、元太が持ってくると「俺が見てる間こっちを見るな」と言ったのだそうだ。その間に何枚か抜き取ったらしい。価値の高いのがなくなっていたと元太は半狂乱。しかし、じゃあ彼のうちに行こうというと「はずかしい」といっていやがる。でも結局行って、私が「君にカードを見せた後で何枚かなくなってたんだけど、その辺になかったか?」と聞くと、始めは知らないと言っていたが、「元太はひどくがっかりしている」と言ったら、道に落ちているのを少し見つけた、とか言い出して、しばらくしてから2枚持ってきた。さすがに悪いと思ったらしい。元太はこの交渉の間ジャンパーで顔を隠していたくせに「この2枚は価値のないカードだ。貴重なやつは帰ってこなかった」とか後で私に文句を言った。でも、しばらくして機嫌が直った。ポケモンでいろいろな子供たちを相手に社交ができるのはいいことだから、やめさせようとは思わない。だまされることもある、ということを学ぶのも教育のうちだ。
 木曜はジェンにマッサージしてもらった。この間身体検査の実験台になったお礼として。彼女は自然医学校に行く前からマッサージをやっていただけあって、とてもうまい。終わって、「首から肩への凝りはすごいけど、その他はよくバランスが取れている」と言っていた。
 今日はなんとなくぼんやりした一日だと思っていたら、朝元太の芝居「大きなかぶ」を学校まで見に行くのを忘れたのを放課後に迎えに行ったとき元太から言われて初めて気付いた。元太のことだから、待ちに待っていたのだろうに、本当に悪いことをした。私も見たかったし。元太はナレーターだったという。


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 土曜の午後から日曜の朝にかけて、子供たちを友人に預けて13回目の結婚記念日を4日遅れで祝った。電話帳でみつけたドイツレストラン「ベルリンイン」に行き、その隣のドイツ食料品店「エーデルワイス」を見物。日本で好きだったリッツのヘーゼルナッツチョコがあった。正方形のやつだ。ソーセージやハムも他の店で見かけないようなのがたくさんあった。買い物客がドイツなまりでしゃべったりして、うちから車で8分くらいなのだが、ずいぶん遠くまで来た気になれた。子牛のカツレツは「ウィーナーシュニッツェル」。
 その後、うちの近くのBelmont通りの小劇場で、女性2人がどんどん役を変わって女性ならではのコミカルなやりとりをする芝居を見た。これはインターネットでみつけた。男に生理があったらどんな会話になるか、とか、女性が1人でシャワーを浴びるパントマイム(脚の毛をそり、鼻毛を抜き、わきの下の毛をそり、オーデコロンを吹きつけてしみるのでしかめづらをしたり)とか。
 2/5の日記に書いた永平寺のしごきに関しては、メーリングリストや23の友人にメールを書いたりした。ああいうふうに、個人がそれまで持っていた考え方や習慣を根こそぎにして伝統文化をたたきこむ、というやり方には明らかな利点がある。組織がきっちりまとまって整然と動くことが出来るから。また、成員にしてみても、いったん組織の規律を受け入れてしまえば、非常に安定した帰属感を持つことが出来る。ただ、組織全体としての知性が伝統的な型の範囲内に制限されてしまうだろうという気がする。
 私自身の感情的な反応が激烈だったのは、ブルータス、おまえもか、という恨みの念から来るようだ。私はいろいろ考えるのが好きだから、考えたことを口にもする。しかし、日本にいたときはちょっと変わったことをいうとまるで無視されることが多かった。なんのかんのいっても、型にはまらないと受け入れられない。ラジニーシの世界に触れたときは、自分の思うとおりに行動しても人々がそれを受け入れて応答してくれる感じがあって感激した。しかし、日本のラジニーシセンターは日に日に官僚的になり、グルイズムが強くなってきて、息苦しくなってきた。アメリカに来て、ダルマレイン禅センターを見つけ、ここ4年ほどじっくりつきあってきて、今でもここの芯は強いが弾力性のある修行姿勢が気に入っている。ただ、ここは曹洞宗であり、永平寺は曹洞宗の本山である。ここの人達はだから永平寺を大変尊敬している。彼らと心を通じ合いはじめている私としては、永平寺で私にとって受け入れがたいことが行われている、ということが腹立たしい。
 しかし、永平寺のことを今私がとやかくいってもはじまらない。私に出来ることは、ここポートランドで行われている禅を日本に紹介することで、禅に興味を持つ在家の人達に、こういうやり方もあるんですよということを示していくことだ。


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 一昨日、『食う 寝る 坐る 永平寺修行記』(野々村馨、新潮社)という本を読んでいて、衝撃を受けた。この本は去年日本に行ったときに入手して、あまり読まずにいたのだが、218日からの接心で応量器を使うというので、この本になら書いてあるんじゃないかと思ってページをめくっていたのだ。(応量器というのは要するに食器のセットである。)たしかに応量器の絵があったりして参考になったが、本文の方にはとんでもないことが書いてあった。
 読んでみてわかったのは、永平寺における新参の雲水の立場というのは旧陸軍の初年兵と同じ(あるいはもっとひどい)で、例えば食事の作法が違っていたりするとぶんなぐられるのだ。しかも、永平寺の生活では食事に限らず、顔の洗い方、大便のやり方まで細かく作法が規定してあって、鬼軍曹みたいな先輩の雲水がいつも見張っている。少しでも間違えれば面罵され、ビンタされる。先輩と目が合っただけでもビンタである。


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 土曜は禅センターで1日。term student retreatの仕上げ。最初は9/25だった。この3カ月間の修行、生活の変化について話した。私の場合、腹が立ったときにだまっていないで表に出す、ということがテーマだった。今までならだまってしまう状況で言い返すということがけっこうできるようになり、その結果も言わない場合よりよかったようだ。つい23日前、小学校の運動場でサッカーをしようとしたら、犬がボールにかみつこうとするので、怒って大声でどなった。前に、やはり犬がボールをくわえて離さず、飼い主が止めようとしてもだめで、結局ボールにみにくい傷がついたことがあるし、友達のフリスビーが噛み後だらけ、唾液まみれになったこともある。いずれも飼い主はすみませんともろくに言わなかった。今回は私がどなった直後に飼い主が犬を連れて去った。私のことを危険な狂人と思ったのかもしれないが(ちょうとそのときおもちゃのバットを持っていたので、よけいアブナイヒトに見えたかもしれない)、おかげで我々は運動場を自由に使って存分にサッカーを楽しめた。だいたい、この運動場で犬を放すのは法律に反しているのだから、議論になったらこっちが勝つ。
 というわけでわりとポジティブに怒りを発することができるようになったのは進歩。ただ、それでは癇に触ることがある度にどなっていればいいかというと、そうでもない。怒りというのはまず気持ちが傷つかなければ起こらない。相手に対して怒りを爆発させる前に、相手のしたことが何故自分の気持ちを傷つけたのか、気付くことが大事だ。もちろん、相手を恨んで根に持つよりはその場で怒った方がいいのだが。


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 フルートを楽器屋に持っていった。穴そのものが変形しているところがあるからパッドを変えてもだめだろうという。修理するだけの価値があるかどうか疑問だという顔。がっかり。でも私が吹いている限りでは空気が漏れているような感じはしないのだが。ディーナに報告すると、「やっぱり」という感じだ。私が「でも音はちゃんと出るし、Gの音も楽器屋がいじってからはちゃんと出ている」と言っても「自分が吹いたときに、音は出たけど音の高さによって吹き方を変えなければならなかった。こういうフルートで練習するのはむずかしいし、変なくせがつく。」と否定的。
 問題なのは彼らと私の間で「フルートを吹く」という表現の解釈が違うような気がすることだ。人がフルートを吹いているのを聞いて、いいな、と思ったことはあまりない。私は自分が吹いて気持よく聞ければそれでいい。特にクラシックの曲が演奏できなくてもかまわない。自分で面白がっている遊びから、他人が決めた基準に達するための努力に変わってしまっては困るのだ。私は、このフルートで何ができるか、というルールで遊んでいるので、フルートそのものを変える、というのはまったく別のゲームになる。しかし、こういうことを説明するのはむずかしいだろうな。


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 日曜の法話は慈光。傷ついてばかりなのと、あまりにも不幸せに感じたので、それを直してもらいたくて仏教にひかれたという。外から見ると自身ありげに見えるのだが、今でもしょっちゅう傷ついているという。そんなものなのかもしれない。
 もう一つ、Gift(才能)Wish(願い)が一致するということについて話していた。できることとやりたいことのずれがなければいいだろうな、と思いながら聞いていた。全般に心を開いて話している感じで、聞いていて気持よかった。
 今日はディーナのところに初めて行ってフルートを見てもらった。彼女は20年くらいフルートを教えていたという。私が20ドルで買ったフルートは「まあ初心者の練習用としては使える」とかなり手厳しい。パッドが悪くなっていて穴がうまくふさがらないところがある。Gの音が出ないときがあったのはそのせいだったのだ。私は吹き方がまずいのだと思っていろいろ工夫していたのだが、これで謎が解けた。どこで修理したらいいか調べておいてくれるだけでなく、レッスンも23回してくれるという。考えてみると私は持ち方すら習ったことがないのだ。写真で見ただけで。


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 このところ、布団のわきに日記帳を広げておき、夜夢を見て目が覚めるとその夢を書き留めるようにしている。せっかくユング心理学のセラピストとセッションをしているのだから、いい夢を記録しようという魂胆だ。夜中だとたいてい目が覚めても断片的なことしか憶えていない。6時から7時くらいに目覚めたときにはわりと起承転結のはっきりした物語的な夢を覚えている。前はよさそうな夢があるとトイレに行って電気をつけて書いたのだが、これだと断片的なものは起き上がるのがめんどくさくて無視することになる。数日前に枕元に小さな懐中電灯を置いて、起きずにメモできるようにしたら、立て続けに朝おもしろい夢を見るようになった。夜中に断片を書き付けることが無意識を刺激して、夢の活動が活発になるみたいだ。観客がよく見てると役者がいい芝居をするようなものなのかもしれない。


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 昨日、ローラにロールシャッハテストをしてもらった。ローラは明日美の同級生ジェニファーの母親で、心理学の博士号を取るために最近仕事を止めて学業に専念している。先日のMazamaロッジでは一緒だったので、少し話をした。虐待を受けて育った人と話すと自分も辛くなる、とこぼしていた。ローラは長いこと情緒不安定な子供たちのカウンセラーのような仕事をしていたのだ。この手の仕事(小学校のカウンセラー等)をやっている人が近所に結構いる。最近急激に増えた職業だろう。子育てという事業を受け持つ主役が家庭から社会へと移りつつある。
 テストの方は1時間半くらいで終わり、「ちょっと見たところあなたの反応は正常範囲だと思うわ。」と言ってくれた。後で本物の患者に対してテストしなければならないので、まず正常人で試してみたかった由。ああいうどうとでも取れる乱雑な形を見せられると、そのときに自分が考えていることが強く反映されるだろうな、と思う。昨夜は道元クラスで「渓声山色」を読んだが、山や川が仏法を語るのが聞こえる、というのも修行に集中していれば起こりそうなことだ。


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 日曜は禅センターのミーティング。人数が増えてきたので、郊外に物件を買って一部の活動をそっちに移そうという案について質疑。私の感覚では、こういうことは集団が大きくなっては質が落ちるから、人数が増えたら、蜂の巣みたいに巣別れして新しく師匠になった人が別のサンガを始めるべきだ。香厳、玉光先生がいくら素晴らしいといっても、200人の弟子の11人に十分な指導ができるとは思えない。


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 一昨日はMazama LodgeというMt. Hoodの中腹の山小屋に泊まって、昨日は一家でそり遊び。山小屋の裏の斜面をクロスカントリースキーの練習用にかためてくれたので、そり遊びにうってつけとなった。斜面の傾斜や雪質、気温、天候(薄曇りで風が穏やか)と全てがよかったので、これまでで最高に楽しいそり遊びとなった。片手で雪面に触れるとそっちの方に曲がるのでけっこう方向をコントロールできる。元太も明日美もうまく滑っていた。マネージャーはひょろっと背の高い元ヒッピー風の男性と強そうな女性。
 菜食の料理もうまかった。明日美は菜食だからうちはしばしば明日美だけ別のものを作ったりするし、レストランでも肉や魚の代わりに豆腐の入ったものを一皿か二皿注文することになり、けっこうややこしいのだが、この山小屋では心配なし。ただ、普通菜食というとタンパク質を補うためにチーズやクリームがしこたま入っていることが多く、ここも例外ではない。私みたいにチーズを食べすぎると胃壁が刺激される者はちょっと困ることになる。乳製品も使わないという究極の菜食主義もあって、それだと今度はやたらトマト味が強かったりする。私はトマトもチーズ同様、あまり食べられない。
 13日はシャーマンのスーザンさんとセッション。今回は、ジャーニーをテープに吹き込んで、それをおこしたのを彼女に読んでもらった。彼女の解釈が私のと大分違うのでびっくりした。だいたい、ジャーニーで自分に関することを質問するのはむずかしい。他人の質問のときの方がずっとはっきりしたイメージが得られる。今回の経験で気付いたのは、自分に関する質問でも、ジャーニーを書き留めて熟練したシャーマンに読んでもらえばけっこう自分では見過ごしていたメッセージが隠れている、ということだ。


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 日常生活が煮詰まってくると、仕事を変えればいいんじゃないかという気がしてくる。仕事を変えることは難しいから、逆に仕事を変えれば全てが解決するような錯覚を持ち続けることが可能になる。もっともこれが錯覚かどうかも、実際に仕事を変えてみなければ本当はわからない。私は人といると疲れるのと気持ちが動揺するのとで実際の生活ではあまり人に会わないのだが、一人一人の人間、ひいては人間一般を理解したいという気持ちも強い。コンピュータ相手の翻訳の仕事量が多いときは特に人恋しくなる。
 9日の参禅ではこの辺の疑問をぶつけてみた。香厳に「そういえば幹夫は先生みたいなことがしたいと言っていたね。」といわれて、ああそうか、そんなことを言ったのかな、と思った。師匠として、そして弟子として、学ぶ仲間として、人間関係の中で教えたり学んだりすることをもっとやりたいというのは本当だ。具体的に何を、ということになると頭を抱えるが。香厳は、今やっていることを捨てるようなことはするな、しかし同時に、やりたいことを延期するな、とアドバイスしてくれた。翻訳が忙しくなると、ちょっと書いてみたいこととか、やってみたいこと(ローラーブレード、ミニトランポリン、水泳)を先延ばしして、後で後悔することになりやすい。忙しいほど楽しみの強度も上げないとバランスが取れないのだ。
 10日の昼は、慈光にランチをおごってもらった。慈光は去年の秋の日本旅行に関する記事を「サロン」というインターネット雑誌に書いていて、鉄道の旅のことについて私にいろいろ質問した。道案内をしてくれた日本女性があまり自分の事について話さなかったことについて慈光は「日本人はみんなああなのか。アメリカ人ならああいうときなんだかんだと話すんだけど。」と聞いてきた。そういえば、アメリカ人は飛行機でたまたま隣に座った他人にでも自分の人生についてけっこういろんなことを話す。日本人でも結構おもしろい会話になることもあるからいちがいにはいえないが。
 10日の夜はユニタリアン教会の説教師のキットさんの家に行って、9日の説教の後のディスカッションをやった。10人くらいが来て、小さいとき何になりたかった、とか、自分について確実だと思うことは何か、とか、自分の天職を感じたことがあるか、とかについてオープンに話し合っておもしろかった。自分の適性とか天職とかをはっきり理解していると言った人が23人いたのに驚いた。私も自分のことをずいぶんいろいろ話した。私の場合、人間っていったいなんなんだろう、という疑問が軸になっているみたいだ。一見一般的すぎる問いだが、私にとってはすごく具体的なのだ。それをどう人々に伝えるか。


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 6日はローラーブレードで禅センターまで行った。歩いて25分の道のりを17分。走るよりエネルギーを使う。前傾するためか、腰の後ろの筋肉がものすごくだるくなる。歩道は結構でこぼこがあって、滑るように、というわけにはいかない。それでもまあエクササイズとしてはいい。走るのと違う筋肉を使うし、膝を痛めないから。大汗をかきながら、歩く人よりたいして早く進まないので、恥ずかしい。
 禅センターで昼食。けっこういろいろ人が来ていて、ミーティングなどやっているようだ。週日昼間にすることがないかな、と考えていたところなので、ここの関係のボランティアを何かしてもいいな、と思った。従来の宗教コミュニティと違って禅センターのメンバーは配偶者が仏教徒でない人が多い(私も含めて)。そのことに関して何か出来ることはないかな。禅センターのコミュニティは教会コミュニティを模しているけれど、一般の教会は家族でまとまって参加するようになっている。我々はそうでないから、コミュニティとしてのまとまりは今一つになる。


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 Joell Hymanに会った。今日は夢の話はせず。家族の激しい攻撃的な感情からどうやって身を守るか。私は明日美と元太が喧嘩するだけでひどく動揺して、なかなか落ち着かない。喧嘩した当人たちがすっかり仲直りした後になっても私はまだ機嫌が悪い。心理的に傷つけられた気がするので抗議したいが、相手には加害者意識がないから困る。沙羅は「あたしがきついことを言ったら言い返して欲しい」と言う。イタリア人なんかものすごい怒鳴りあいをした後でけろっとしているそうだが、波風の立たない家庭に育った私にはなかなかそんな芸当は出来ない。
 禅センターで正法眼蔵の「礼拝得髄」を読んだ。この頃の道元は女性でも在家でも悟っている相手にはおじぎをして学ぶべきだ、と言っている。ただ、その後永平寺にこもってからの道元は出家絶対主義に変身したようでもある。


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 数日間翻訳をしなかった。翻訳をしないと趣味で書いているものも書けなくなる。言語中枢がオフラインになっている感じ。
 一昨日の禅センターでは、小さな白い観世音菩薩の彫像をもらった。花瓶から水を注いでいてその水の上に横座りしている。寝室の仮の仏壇(本箱の上)に置いた。
 1日は大串家、エリック・ジャネット、ジャネル・ピート、それからブランディ・エレインのうちをこれら4家族でめぐりながらディナー。ピートの従姉妹のローラが数日前にベトナムから帰っていて、6週間の赤ん坊を抱いていた。ベトナムで養子縁組みをしてきたのだ。彼女は独身だが、なかなかこれという男性にめぐりあえず、しかし子供は育てたいので養子をもらったのだ。現代の日本人はすごく血のつながりにこだわるけど、アメリカ人は一般に子供と血がつながっているかどうか、にはそれほどこだわらない。自分で育てればそれは自分の子供なのだ、という考え方だ。沙羅も養子である。


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 沙羅は昨日の朝、出産で出かけて、1日中戻らず、西暦2000年は沙羅なしで迎えることになった。エリック/ジャネットの一家が89時に来るという話だったが、結局その前のパーティで引き留められて、来たのは10時半過ぎ。他にも禅センターとか近所の家とか招待されていたのだが、行くわけにもいかず、ブーブー文句をいう明日美とジクソーパズルをしながら私も低調。それでも彼らがやっと来てからは明日美はカヤ、元太はナイジェルと遊んで機嫌が直った。カヤとナイジェルはうちで泊まった。子供たちだけでちゃんと寝るので私は何もしなくて良い。
 21世紀の大きな変化を予測する。多分、子供の養育をプロとコンピュータが肩代わりするようになるだろう。少数派は小さなコミュニティを作って村全体で子供たちを育てるという感じになるだろうが。プロザックタイプの抗鬱剤を始めとして、性格改変薬がたくさん使われるようになるだろう。ある種の薬を服用していないと入れない公共施設やレストラン等が出現するかもしれない。犯罪者は服役する代わりに毎日投薬所に出頭して性格をおとなしくする薬を飲むことを義務づけられるだろう。予算ということを考えるとこの方がずっと社会効率がいいことは一目りょう然だから。