ラジニーシとの関わりとオウム真理教


これはオウム真理教の行為が明るみに出るにつれていわゆるカルト一般への人々の恐怖が強くなり、私の以前のラジニーシグループとの関わりとオウムとの間に一線を描いて家族に安心してもらおうとして書いたものです。書いたのは96年3月ですから、禅、シャーマニズム、レイキと出会う前です。ちょっとした精神的自伝の趣もあります(980602記)

 オウム真理教が地下鉄のサリンガスの犯人であることが確実になってきた頃、姉さんが母さんに「10年前でなくてよかった。10年前だったら幹夫がきっと関係していた。」と確信ありげに言ったと聞き、おやおやすごいことを言うなあ、と心外に思いました。
 しかし、考えてみるとそれも無理はない。オウムと私の関係していたラジニーシの間にある程度の類似性があったことはたしかで、友人のサニヤシンが「オウムというのはラジニーシの弟分みたいな感じだ」とまだ始めの頃('85)のオウムについて言っていました。(ラジニーシの弟子をサニヤシンと呼びます。私もこのところ幽霊メンバーですが、サニヤス名というのをもらっています。)したがって、離れたところから見た場合、両者が同類と思われるのも無理のないところがあります。
 とはいえ、私がラジニーシ師(私の頃はバグワンと呼ばれ、このごろはオショウ(和尚)と呼ばれています)の運動に関わった経験は、伝え聞くオウムの内情とは大きな隔たりがあることも確かです。正月('96)に久しぶりに電話して姉さんや義兄さんと話した後ふと気がついたのですが、私はそうした自分の経験やそれについて考えたことについてまともに説明を試みたことがない。これでは誤解されるのも当たり前ですね。
 今まで説明を試みなかった理由の一つは、母さんや姉さんあるいは義兄さんでも、そもそもそんなことに関心があるとは思えなかったということがあります。私にとってラジニーシは他の人が自然に持っていて自分には欠けているものを補ってくれる補強器具であり、多くのサニヤシンが持っていたようなラジニーシ思想を世界に広める使命感といったものは私にはあまりなかったのです。しかし、今はオウム事件のおかげで皆さんの関心も高まり、それで姉さんの「10年前だったら」という発言もあったのでしょう。
 私としても去年('95)の12月がちょうどオレゴンのコミューン(ラジニーシプーラム)の崩壊から10年で、振り返って書くことができるだけの時間的距離も十分ある気がしてきました。そこで、私にとってのラジニーシとのかかわりがどんなものであったかを以下に書いてみたいと思います。
 話は大学に入った頃から始まります。私は大学で教えられていることに失望していました。高校まではとにかくどの学科もある程度おもしろいと思っていましたが、大学の講義、特に理系の講義はおもしろくありませんでした。当時私は理系にいくことにしていたのですから、これは残念なことでした。
 今考えてみると、これは宗教教育というものがなかったということが原因のようです。宗教というものが日本であの頃もっと尊敬されていたら、私は多分宗教学の勉強をしたでしょう。しかしあの頃の日本は---今もそうですが---極端に世俗的で、大学で宗教的情熱に燃えていたのは民青くらいのもので、私は民青は嫌いでした。世間知らずで臆病なところのある私には世間的にさげすまれている宗教方面へいく勇気はなかったでしょうし、またその先達になれそうな人もまわりにいませんでした。
 学部時代はそれでも陸上に熱中していたので、講義のつまらなさもそれほど気になりませんでした。私が陸上をやる姿勢には修行僧が荒行をするときのように、肉体を限界まで追い込むことで精神的な壁を破ろうというところがありました。大学院では心の空洞を満たすためにユングの心理学の本を読み耽ったりしました。私の科学的な興味は中学時代の物理、高校時代の分子生物学から大学院時代の心理学へと移っていたのです(といってそのどれもたとえば陸上のように気を入れてやったわけではありません)。しかしとにかくこの興味の流れから次は何か宗教っぽいものに引かれるだろうということは予想できるのではないでしょうか。
 こういう興味の変遷は私だけではなく、笠原嘉氏の「青年期」(中公新書)には工学部の学生がやがて心理学に興味を持つようになり、また(後の私のように)留年を繰り返すようになるということが書かれていて、なるほどと思ったことがあります。
 ここで少し私の宗教への関心とはどんなものかということを書いておきましょう。5才くらいの頃、私は一時死ぬことが恐くてよるなかなか寝つかれませんでした。そのときなぐさめになった考えが二つあります。一つは、医者になって自分が死にそうな病気になる度に治療法をみつけるというものです。自分が病気で死にかけているときに、その病気の治療法を一生懸命研究するというイメージはなかなかエキサイティングでした。
 しかしそのうちもう一つの考え方の方が根本的だと思えてきました。それはつまりこういうことです。もし私が死んで完全に消滅するのなら、恐れている私もいなくなるわけで、本来そこに問題などない事になります。一方、肉体が死んでも私が存在し続けるなら、私はまだ生きているようなものですから、それも心配するようなことではないわけです。(古代ギリシアの哲学者エピキュロスがすでにこうした考え方をしていたようです。)
 これは第一の考えよりももっと確実な解決のように思えましたが、ただしかし、そう考えただけで死の恐怖を追い払うことは困難でした。つまり第一の医者になるというアイデアは論理的にはスキがあるものの(いつでも治療法が間に合うとは限りませんから)、感情的には気楽です。第二の、死と私は共存できないという考え方は論理的説得力はピカ一ですが、恐れを追い払うには感情的説得力が欠けていました。
 そこで私は次のように考えて自分をなぐさめました「今は自分は子供だから非論理的な恐れを感じるが、やがて歳を取ればこういう感情は薄れて、もっと納得できるようになるだろう。」この結論によって私の幼年時代の死へ恐れは一応終息したのです。
 考えてみると、高校時代にそのころ新しかった分子生物学に興味を持ったのは幼年時代の第一のアイデア(医療による寿命の永久延長)の再燃だったかもしれません。そして私が大学に無意識に求めていたのは第二のアイデア(死の非現実性の認識)を感情的にも納得させてくれる成熟の機会であったのでしょう。しかし、現実の大学には第二のアイデアの場所などなかったのです。
 バグワンラジニーシの講話の本を初めて読んだのは81年の3月に御茶ノ水の丸善で例によって立ち読みをしていたときです。大学院時代は少なくとも一日一度はどこかの本屋で立ち読みをしていたと思います。自分がもっとしっかりしていたら、これと同じような事をいうのではないか、と思ったのを憶えています。この世界について、人間について、自分に納得のいくことをいう人に初めて出くわしたという感じがありました。
 ちょうどその頃出会った女性に私は恋するようになっていました。それは単なる思いだけでなく、私としては珍しく彼女にしょっちゅう電話をしたり、デートに誘ったりという積極的なものでした。一般に私の人間への興味は散発的なものでしかなかったのですが、彼女に会って初めて人の世界に近付きたいという欲求が持続的なものになったのです。
 といってもそれまで孤立した感情生活を送っていた私には人の世界はあまりにも遠く、そもそも人と付き合うためのとっつきというものがありませんでした。そのとき、バグワンの弟子であるサニヤシンたちの世界が魅力的に思えてきたのです。彼らとなら、バグワンという共通項によってかかわりあいが可能でしょう。彼女はサニヤシンとは全然関係ありませんが、サニヤシンの世界は私の世界から彼女の世界への架け橋に見えました。
 バグワンの言説のどこに魅力があるのかということですが、彼は講話が好きで、講話録は多分百冊を超えているでしょう。それを短くまとめていうことは私にはとてもできませんし、第一たいていのことは彼の独創ではなくて、他の人が言ったことを繰り返しているのです。私は宗教的な講話というのはバグワンが初めてなので珍しかったのですが、後で他の宗教関係の本を読んだりして、彼の言っていることの内容が特に独創的だったわけでもないと思えてきました。
 ただ、バグワンのは思い切ったことをやるようにけしかけるようなところがあり、普通の人は生を狭く生きすぎるために死を恐れるのだ、生を全体として、怒りも醜さもすべて受け入れれば、瞬間瞬間がエクスタシーなので、死ですら親友のように抱き締めることができる、といった言い方が私には印象的でした。これは、いつか成熟して死の恐怖の非論理性を体得したいと願っていた私に一つの回答を与えるものでした。
 サニヤシンたちと私がいったい何を実際にやっていたかというと、一番熱心にやっていたのはセラピーグループといわれるものでした。これは、人が抑圧された強い感情を抱えていると、瞑想のゴールである意識の空白状態が実現できないという理由でバグワンが勧めていたものだったもので、このため彼のもとにはアメリカ西海岸辺りの心理療法家がたくさん集まっていろいろなセラピーグループを行っていました。
 私にとってはこのセラピーグループはふだんはとても言えないことやできないことでも、グループという安全な環境の中で言ったりやったりできるという大変ありがたいものでした。私は元々内向的な性格に生まれ付いているところへもってきて、小さい頃に引っ越しばかりで結局ある程度より深い人間関係を結ぶ能力が発達しないままに成人してしまい、前記の女性が好きになっても自然に近付くことができず、途方にくれていましたから、セラピーグループには特に熱心に参加しました。85年に沙羅に出会ったときには初めからすべてがごく自然に進んだのですから、セラピーグループの御利益は十分あったわけです。
 ここで、バグワンのいう瞑想というのはどういう事なのかを私の理解した範囲で説明してみましょう。彼によると、人間の心は黒板のようなもので、次から次へといろんな事が書き込まれていきます。ところが、前に書かれたことが消えないで残っていると、新しく書いた内容をうまく読むことが難しくなってきます。普通の人の心はこうしたぐじゃぐじゃ状態にあるとバグワンは言うわけです。瞑想というのはこのぐじゃぐじゃを消して、黒板を空白の状態にすることだというのです。この方がものごとをクリアに考え、感じることができるというわけです。
 普通の人の心がいかに落ち着きのない混乱状態であるかを示すためにバグワンはこんなことを言います、「時計の秒針を見つめて、今この秒針を見ているということだけを意識し続けなさい。これが1分間できたらあなたはもう光明を得ている。」ところが実際には2、3秒もしないうちに別の考えが浮かんでしまうです。
 瞑想はつまり、何もしない、何も考えない練習のようなものですが、実際の形としてはまあ座禅のようなものです。バグワンの特徴は、座禅のような静かな状態に入る前に激しい呼吸や運動をする時間を加えていることです。これは、活動の欲求を満たすことによって心を静めやすくすることだと私は理解しています。たとえば私はよく円海山まで走って行って、帰りは歩いたものですが、この歩いている間はすっきりした気分で、いろいろなことを考えたりして楽しいときを過ごしたものです。走りたい、という私にとって基本的な欲求が満たされているので、心のくもりが少ないのでしょう。
 基本的欲求という言葉がでてきたところで、人間のもっとも基本的な欲求の一つである性的欲求についてバグワンがどう言っていたかに触れておきましょう。彼によれば、現代人のほとんどは性的欲求不満のかたまりで、そのままでは瞑想なんて望むべくもないのです。他の雑念が去っても、性的妄想によって黒板に異性の姿が煽情的に描かれたままでは空白の実現は望めません。
 性的欲求についてはおしゃか様も苦労したらしく、教団に女性を入れるのに難色を示したといいますし、日本の高野山の女人禁制なんていうのも性的欲求への対策でしょう。つまり仏教では主に女性を遠ざけることによって性的欲求が頭をもたげるのを防ごうとしたわけですが、これが必ずしも成功しないだろうということは想像がつきますね。性的欲求は私達の内側にあるものですから、いくら対象である異性を遠ざけても、結局は代替物をみつけて欲情をかきたててしまうでしょう。お稚児さん趣味とかがいい例です。
 バグワンは逆療法を試みました。つまり、性的欲求が簡単に満足されやすい環境を作ったのです。ここに、ラジニーシグループがフリーセックスカルトと呼ばれた原因を見ることができます。
 フリーセックスといってもみだらな感じはありませんでした。第一フリーと言ったって誘った相手に断られればあっさりあきらめるのが慣例でしたから、醜態が演じられるようなことはなく、特にオレゴンのコミューンではみんな性に関しては一般の人々よりもずっと恬淡としていました。私自身の経験を少し書いてみましょう。
 私は82、83、85年の3回、サマーフェステバルの時期に3〜4週間ずつ滞在しました。コミューンそのものは3千人程度の規模でしたが、フェステバルには世界中から1万〜1万5千人のサニヤシンが集まり、ほとんどはテント村に滞在しました。コミューンははげちょろけの山に囲まれたY字形の谷の河岸に展開していて、川の近くだけ緑が豊かでした。山の斜面はセージや松の香りが高く、ラベンダーなどが咲いていましたが、まあボールダーの山のような感じでした。まわりは半径数十キロにわたってほとんど人が住んでいないような感じでした。
 女性に関してはまったく不器用だった私はもちろん性的欲求不満のかたまりのような状態で初めて('82)オレゴンに行ったわけですが、もちろんすぐに女の子に声を掛け始めたというようなことはありませんでした。
 セラピーグループの最初の3日はリバーシングという呼吸法をやりました。これは過呼吸によって血中酸素の濃度を増し、感情的なとどこおりなどを流してしまおうとするものですが、筋肉に緊張があるとカチカチになってこむらがえりのようになり、大変な苦痛でした。私は陸上部の練習に耐えるような悲壮な気持ちでそれに耐えました。
 3日目の苦行が終わったとき、となりのマットレスで私と同様ほっと一息ついていた私より少し若いアイルランド人の女性を見ていたら、すごくきれいというわけではないけれど、親しみやすく好ましい表情をしていました。少し話してみて、やはり感じがいいので、思い切って「あの、今晩一緒に過ごしませんか?」ときくと、彼女はちょっと考えてからはずかしそうなやわらかい微笑みを浮かべて、「いいですよ」と言ってくれました。
 これは、一人の女性に男性として認められるという非常に大切な経験でした。この82年のオレゴンでは、何故か外国人の女性にやたらもてました。私はどうみてもハンサムではないし、日本では女性が本当に私に魅力を感じるとは思えなかったので、これはうれしい発見でした。多分、日本人としては体格がよく、英語も話せたのでエキゾチックに見えたのでしょう。
 女性と親しむというのは何も特別なことではなく、大学でも大学院でも私の周りにはごく自然に女性と付き合っている友人がいたものです。私にとって何故ラジニーシプーラムという特別な環境が必要だったのか、はわりと大事な点なので、これも少し書いてみましょう。
 それは社会の中での基本的な居心地の良さとでもいうべきものです。自分の本能に従ったとき、それが社会の期待するものとそれほどずれていないという自信のようなものが、上記の闊達な友人達にはみられました。
 ところが日常生活で周囲の人々が持っている価値観というものは私にとってひどく異質なもので、それに合わせることは表面的にしかできないし、またそれによって私自身の自然な心情の表出は不可能になってしまうのです。
 ラジニーシプーラムの良さは、とにかくそこにいる1万人だかの人々はみんな、私と基本的に似た価値観を持った人であり、私が自然に振舞ってもそれが大きな不協和音を引き起こさないという基本的な安心感があったことです。
 滞在中に私は正式にサニヤシンになることを決めました。それから例の赤っぽい服を着て、マラ(数珠)をぶらさげる生活が始まったのです。プーラムを去る日は故郷を後に残すような気がしました。
 プーラムから帰ると、私はどこへでも赤い服とマラを着用するようにはなりましたが、プーラムで経験したような開花は日本での日常生活ではまたしぼんでしまい、ふがいない思いをしました。けれども、絶望はしていませんでした。たとえ特別な環境の中だけであったにせよ、私は幸福の可能性を見たのですから。
 83年のプーラムでは、年上のドイツ人の女性に出会いました。彼女は感情的にとてもすなおな人で、たとえば、セラピーグループの後で会う約束をして、さて終わって部屋を出ると、まるで注文したアイスクリームができてくるのを待っているような顔をしていた彼女が私をみつけてぱっとうれしそうな笑い顔になるのです。その彼女が私のことを「あなたはすばらしい人よ」と何度も言ってくれるので、それにつられて、私も自分のことを肯定的に見ることができるようになってきました。
 こういうふうにサニヤシンの世界との接触で私は貴重な経験をしましたが、サニヤシン社会の一員になることは結局のところできませんでした。私としては自然にサニヤシン達との付き合いが深まっていくのを期待していたのですが、あいにくそういう具合にはことが運びませんでした。多くのサニヤシンがバグワンを神様のように言うことが、私には異質に感じられました。私にとって、バグワンは大変な洞察を持った人ではありましたが、彼に自分のすべてをあけわたせるとは思えず、またその用意がないのにサニヤシンの社会に入っていくことはできないと思いました。
 あるいはただ、私はどんな組織にも合わない独行者であるということなのかもしれません。「マイ・ピープル」への希求は強いのですが、現実世界に存在するどんな集団にも本当にはなじめないのです。とにかく、83年以降、私は徐々にサニヤシンの世界から離れていく事になります。
 83年から84年にかけての一時期にはいわゆる霊的現象に興味を引かれていました。あるとき、栗木の家の2階の私の部屋のベッドの上ですわって瞑想していると、体が空洞になったように感じ、しかもその空洞の中を風が下から上へ吹き上げ始めました。その風はだんだん強くなり、ゴーゴーという音が大きくなりました。体全体が吹き上げられてしまいそうで、恐ろしくなって「もうやめてくれ」と念じると、それを境に風は弱まり、やがて収まりました。
 また、瞑想の後で横になっているときに、金縛りのようになったと思うと、体がフワフワと浮かんでいるような感じがよくしました。これは体外離脱、と呼ばれている現象です。こういう現象に対するバグワンの姿勢は健全なもので、彼はそういうことが起こることは認めつつも、別に瞑想の本質には関係のないことだからあまり注意を払わないように戒めています。
 そういえばオウムでは霊的現象の重要性を強調して、麻原氏が空中浮揚している写真を発表したりしていましたね。こういう現象に凝ることの危険性は、薬によってこれらが誘発されることからも明らかでしょう。オウムではこうした幻覚剤のたぐいが多用されていたとききます。
 私は異常な感覚そのものには好奇心を感じただけですが、たとえば体外離脱中は心が非常にやすらかになるので好きでした。日常生活では心が何らかの形でいつも引き裂かれている気がするのに対して、こういうときは自分が本当に一つにまとまっているのです。
 84年はラジニーシプーラムへは行かなかったものの、統一教会の誘いで3週間のアメリカ旅行に行きました。統一教会の中でも、私が接したのは主に東大生をアメリカ旅行に誘う係の人達ですが、はっきりとした使命感を持っているところなど、なかなか尊敬に値するところがありました。私は特にYさんという女性と親しくなり、彼女は私が勧めたバグワンの本を熱心に読んで同僚から「信仰持たないでね」と心配された、と笑っていました。
 私に関する限り、入信を強要されるというようなこともなく、原理講論の講義も興味深く、アメリカ旅行もおもしろかったので、今考えてみると、統一教会とのかかわりは私の方のまるもうけだったようです。
 Yさんを東京のラジニーシのセンターに案内したときは、センター住み込みのサニヤシンの女性と彼女が意気投合して、そのサニヤシンは私に「あなたももっとコミューンに献身しなくちゃ」と叱るように言いました。私はただセラピーブループなでを利用することにしか興味がなく、自分がラジニーシの運動の一翼を担うなんて気持ちは、具体的なものとしては何もなかったのです。
 そしてこのことが結局はサニヤシンたちから離れて行く基本的な原因だったと思います。私には集団への帰属感というものが欠けているのです。後で家族を持ってみて、それがもっとはっきりしました。沙羅のため、2人の生活のため、そして子供のためであればさすがの私もかなりのことはします。他のどんな集団に対してもそんな奉仕はまずしなかったのです。
 たとえ10年若くて今オウムの信者だったとしても、彼らの日本国への「戦争」に自分が荷担していたとは思えません。私は自分のものだと思うものに対しては支配欲もありますが、拡大志向はないし、他人を支配する気はないのです。一方、人の世話をこまめにやく人は、基本的に権力拡大主義者で、世の中に大騒ぎを起こすのは良くも悪くもそういう人達なのです。
 85年にはまたラジニーシプーラムに行きましたが、このときはあまり意気が上がらず、自分でもこれはちょっと煮詰まってきたな、と感じました。しかし、帰ってからはこれまであまりなかったサニヤシンとの個人的な付き合いが少しできてきて、そして秋のセラピーグループで沙羅に出会ったわけです。このときのグループでは、とにかく行き詰まりを打開しようと懸命にボディワークや瞑想に取り組みました。ラジニーシでは薬は使いませんが、体を使う修法では、続けていると死ぬんじゃないかと恐くなることがあります。終わってみると体はなんともないのでまったく心理的なものなのですが。このときは死んでも止めないぞという自分でも驚くような不動の決意で臨みました。
 グループというと普通は魅力的な女の子に会えるかなという期待が多少はあるのですが、このグループだけはそれどころではなく、全力を尽くすことだけを考えていました。こういうときに沙羅に巡り合ったのいうのはおもしろいですね。沙羅もこのグループでは、後3週間で帰国しなければならないので、ボーイフレンドを探すなんて気持ちはまったくなかったそうです。
 沙羅はそのときはサニヤシンになりかけのころでとても熱狂的でしたが、その後ピースマーチの8カ月間を終えてボールダーに定住し始めたころから沙羅の方もサニヤシンとの距離を感じ始め、ボールダーにたくさんいたサニヤシンともほとんど行き来はありませんでした。
 ラジニーシプーラムは85年の末のスキャンダルで崩壊しました。その直前頃のプーラムは地域住民との軋轢が強まり、全国から浮浪者を集めてきて選挙で勝とうとしたり、果ては反対派住民の集まるレストランにサルモネラ菌をまくという、程度はともかく質的にはオウム並の所業までみられるようになりました。外の者を皆敵視する姿勢、終末論的な情調、被害妄想といったオウムと共通の要素がたしかにこの終焉の近いラジニーシプーラムの上層部の間にはあったようです。
 宗教団体にはいつもこの二面性があるようです。個人の心の解放と、そして集団としての孤立化。内部で人と人との間の垣根が取り払われるほど外部に対しては障壁が高くなります。そうしていつかその孤立した内部で最悪の権力亡者が力を握るのです。あるいは一人の人間の心の中でもこれが起こるのです。一方で開かれた心、そして他では権力志向。
 人間の心というのは、外部からの影響を極めて受けやすいもので、しかしそれでは害意のある他人に利用されて使い捨てられてしまうので、人は心に外壁を築いて自分を守ります。ところがその外壁がやがては成長と発展を妨げる牢獄になるわけですね。
 宗教というのは本来こうした牢獄から人を救い出すこと、少なくとも心の建物の拡張工事を手伝うのが役目であるはずです。世俗的な社会の中にもそういう環境は組み込まれているということは、たとえば会社の中で、若い者にむずかしい仕事を与え、本人はそれを成し遂げることによって精神的に一回り大きくなる、といった例に表れていると思います。仕事を成し遂げなければならないという使命感によって壁を破り、自分の心を建増しする、ということですね。また、日本特有の酒宴も、心を開ける安全な環境を人々に与えているのでしょう。
 社会の中にも、既成の宗教の中にもそういう環境を見いだせない牢獄生活者はカルトに走るのでしょう。何といっても自分に合っている環境でなければ誰も壁に穴をあける気にはならないでしょう。外の気温や湿度や匂いといったものが肌に合うと感じて初めて外の空気に触れたくなるのです。
 私にとってはバグワンの言説やサニヤシンの持っている雰囲気が自分に合った環境を提供してくれたわけです。周囲にサニヤシンしかいないところに、しかも数週間起居を共にするというラジニーシプーラムは理想的でした。じめじめした牢獄からパッと開けた春の野原に出たような気持ち、とでもいいましょうか。
 私自身はラジニーシグループとの関わりですごく得をしたので、どうしても見方が肯定的になりますが、閉鎖性から来る危険性も認めざるを得ません。ただ、虎口に入らずんば虎児を得ず、心の拡大に安全な道などないでしょう。
 私は統一教会が組織としてかなり悪どいことをしたことを疑いませんが、その一員であるYさんについては忘れられない想い出があります。東大の赤門前辺りの歩道でたまたま出くわしたとき、彼女が私を見つけた瞬間に微笑んだのですが、桜の花がパッと開いたような、まじりっけのないうれしさの表現はちょっと他では見られないものでした。統一教会が彼女の人格をそこまで磨いたとすると、そこになにか非常にポジティブなものがあったと考えざるを得ません。
 人は時には危険を侵す必要、冒険の必要があります。一人一人が危険を侵さない社会は結局戦争とかの形で集団的な狂態を演じるのです。一人一人が自分の小さな冒険のために危険をいとわなければ、世の中そのものは平和になると私は思いますし、多分平和への唯一の道だろうと思います。

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