ここ数年間、私はあるSF小説を書くつもりで断片的に草稿を書き散らしてきた。しかし、どうもこれは小説という形にまとまりそうもない。どうしようかと思っていたら、こんなことを思いついた。すなわち、今までに書いた断片を資料として、完成した小説の姿を推定していく一種の学術的なアプローチを取ってはどうかと思ったのだ。それに、何年も頭の中で発酵させてきた題材なので、考えたが書いていないという部分もたくさんある。そういう部分も思い出したら付け加えていこう。記述はあっちへ飛んだりこっちへ流れたりするだろうが、常にあるまとまった全体への希望を持って書き続けようと思う。
さて、最初にわりと大きな断片を引用する。初めのカッコ内の数字は断片の通し番号及び私がこの断片を書きつけた日付である。
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(#1、890730)放射線カウンターがうるさく鳴りだし、俺は立ち止って音を小さめに調整した。ここは地下第4層だが、この辺でも第6層以下の市民区域の数千倍の放射能になっている。隣でやはりボリュームを下げているダグに声をかけた、「早く行こう、ぐずぐずしてると探検車に着く前に屑人間の仲間入りだ。」しかしダグはさして歩調を速めるでもなく、まわりを見回しながら歩き続ける。薄明るい証明に照らされて、そまつなベッドや布団が散在している。屑人間達があるいは横たわり、あるいはベッドに腰をかけてぼんやりと俺達をみつめている。歩いているのは俺達だけだし、防護服姿は目立つ。
「ご存じですか? この中にはここで何年も生きている者がいるといいますよ。」とダグが妙に声をしゃがれさせる。「バカな。第一いったい何を食って生きるんだ? ここには食料配給なんてものはないんだぞ。」と言ってみたものの、実は俺もさっきからへんな感じがしていて、ダグの発言で急にそれがはっきりした形を取り出した。屑人間として捨てられるのが何人か知らないが、平均したら毎週2、3人を越えることはあるまい。もともと体内放射能が許容限度を越えた連中が捨てられるのだから、健康状態は始めから悪いし、食物もない。(「屑人間」などど呼ぶのは俺だけで、正式には「引退者」だ。礼儀正しいシティの人間は皆この正式名で呼ぶ。)だからせいぜい生きて10日というところだろう。それから計算すると生きている屑人間は10人を越えることはないはずだ。ところが、ちょっと見回すだけで30人くらいは数えられるし、見えないところもいれればどうもその何倍かはいそうな感じがする。死体でも食っているのだろうか・・・。だんだん想像がおかしな方向にそれはじめたので、しゃにむに歩いて忘れることにした。
どの層もそうだが、下層への連絡口と上層への連絡口は反対側に付いている。第4層の長さは2キロばかり、巾は1キロというところ、真ん中に巾30メートルばかりの大通りがある。かつて穴堀機械が行き来していた石畳の道路だ。防護服を身に付けて第5層、第4層とひたすら大通りを歩いてきた俺達はくたびれてきた。一応電気車の使用を申請したが、いったん上層で使った車はもう下層では使えなくなるので、許可が下りなかった。
第3層の出口にようやく辿り着く。直径30メートルはありそうな半円形の扉で、上の方は天井近くまで届いている。しかし俺達が使うのはその中にはまっている小さな扉だ。扉の横のキーボードにコードを打ち込むとカチッっという音がしてロックがはずれた。本当は自動的に開くはずだが、そのメカニズムは大分前から壊れていると聞いていた。重い扉を2人で押し開いた。このドアが最後に開いたのは前回の探検隊が帰ってきたときだから、もう30年も昔のことだ。さびついているかと思っていたが、以外に簡単に開いた。中間室に入ると、放射能時代に育った俺達はごく自然に大急ぎでまた扉を閉めた。「1秒でも早く閉めよう層間ドア」は幼児の読本にもちゃんと書いてある。
スロープを登り、第3層への扉に取り付く。「生きはよいよい帰りはこわい、か」とつぶやきながら扉を開いた。もし帰ってくるようなことがあれば、この中間室で放射能落しの処理を受けなければならないが、それでも第4層までしか入れてもらえまい。もっとも、2人とも生きて帰るつもりはないので、これはあまり現実的な心配ではない。死に場所を求めての探検だ。そう考えると胸が膨れ上がるような不思議な解放感で体がジーンとした。どんな死に方をするか、人によって好みがあるだろうが、過去の生物の歴史を研究してきた俺にとって、ビデオや本でしか見たことのない生き物や先祖がかつて住んでいたという地上、輝く太陽の下で死ぬのは永年の夢だった。
第3層の入口をはいると10メートルほど先に探検車が見えた。ずんぐりとした、まるで図鑑で見たコガネムシみたいな形をしている。俺のひとりごとを聞きつけたダグが「何ですかそのコガなんとかいうのは?」ときく。一瞬説明を試みようとしてすぐにあきらめた。昆虫図鑑を見たことのない彼にどう説明しようもないことに気づいたからだ。俺だって実物は見たことがない。居住区には人間以外の動物は皆無だし、食料工場にだってごく限られた微生物と植物しかいない。虫とか動物とかの姿は画像記録としてしか残っていないし、俺のような物好きでなければ、その記録も見たことがなくて当たり前だ。一般にシティの人間は外とか過去のことには興味を示さない。
探検車に近づくと、案の定ヘルメットの中の警告ライトが点滅し始めた。地上を走ってきた探検車の外壁は濃密に汚染されている。まず俺がタラップを急いで登り、てっぺんのハッチを開けて中に潜り込んだ。途中に小さな洗浄室があるので1度に1人しか入れない。身をかがめて洗浄を受け、終わって操縦室にたどりつく。ライトをつけて外にいるダグに合図した。5分ほどでダグも入ってきた。もともと6人乗りなのでスペースはゆったりしている。放射能レベルはぐっと落ちて、食料がなくなって死ぬまでは生きていられそうな程度になっている。
操縦法は一応習ってきたのだが、実物に触るのは初めてなのでまずはゆっくりと計器盤を見回した。そしてメインスイッチを押す。後部でかすかなうなり声がして、原子力電池が30年ぶりに活性化された。核物質との危険な戯れは結局ほとんど地上の全生命という代価を強いたが、原子力電池という極めて信頼性の高い動力源を我々に残してくれた。シティがこれまでやってこれたのも、原子力電池の技術に負うところが大きい。モニタースクリーンには今抜けてきた層間ドアが映っている。窓がないので外の景色はこの映像でしかわからない。そのかわりかなり強烈な放射線の飛び交う場所でも乗員を守ってくれる。
第3層にはもう屑人間もいないはずだ。完全な廃墟。機械や建物も撤収されているので、第4層同様ガランとしている。照明も消えた。俺達が第3層に達して10分したら消す手筈になっていたのだ。探検車のライトが行く手を照らす中をしずしずと発車する。
「今度の層間ドアはどうやって開くんですか?」「制御盤のこのスイッチを押せば開くはずだ。少なくとも30年前は開いたと報告されている。」開いてほしいものだ。実は、もし開かなければあきらめて戻れ、という指令を受けているのだが、俺にしてみればせっかくここまで来て戻るのはまっぴらだ。長い間の念願だった地上見物がもうちょっとでできるというのに、誰が引き返したりするものか。もっとも、そうは言っても頑丈なドアをこじあけるのは不可能に近いことは俺も知っている。たとえ破壊できたとしても、今度は締められなくなるから、シティの放射能汚染を加速することになる。さすがの俺もそこまでやる気にはならない。といって、遅かれ早かれ市民は1人残らず放射能まみれになるのは避けられまい。俺がこの自殺行を決心した理由のひとつはそれなのだ。どうせ死ぬなら、というわけだ。
「タケルさん! あれ! あれはなんでしょう?」またしても連想の渦に引き込まれていた俺は、ダグの声で我に返った。モニターに目をやったが、広い中央道路とそのわきにまばらに散在するガラクタ以外何も見えない。「何が見えたんだ?」「動いたんです」「何が?」「わかりませんが、人影みたいでした」「人影?・・・・」。
しばらくモニターをにらんでいたが、結局何も見つからなかった。しかし、俺はだんだん興奮してきた。考えてみれば、第4層にしろ第3層にしろ、これらの層が放棄された82年前以来、捨てられた人間は別として、実に長い間誰も足を踏み入れていない。30年前の探検にしろ、ただ通り過ぎただけだ。この辺で何が起こっているか、シティの俺達には全然わからないのだ。わからないから、完全な死の世界であると信じ込んできた。放射能から身を守ろうと、地下に向かって退却に退却を続けてきた市民達は、いったん捨ててきた場所はもうないものと思う習性が身に付いていた。いくじのない姿勢といわれれば返す言葉がないが、そんな風にののしる人間はシティにはいない。いるとしても多分俺1人だろう。
市民達はまったく明らかな事実に対して頑強に目をそらし続けている。それは、このままでは俺達に明日はないということだ。当初は核燃料を大量に持っていたせいもあり、とにかく地下深く潜れば半永久的に生活できるとみられていた。「災厄の日」にはシティは第3層までできていて、地下生活の初めの頃は第1層でも人間の居住が可能だった。しかし数年経つうちに、地上からしみこんできた放射性物質のために第1層での居住は危険になってきた。人々はそのころから第4層以下の層を掘り始めた。掘った岩石はまず第1層に捨てた。50年かかって第9層まで達したとき、思いもよらぬ事態が降ってわいた。放射性の地下水が下の方からシティをおびやかし始めたのだ。やむなく第9層が放棄された。当時の市民の絶望は想像に余りある。数十年かけて遠ざかってきたはずの放射能にいつのまにかはさみうちにされていたのだ。前回の探検隊はそのときの危機感の産物だ。
しかし、最近ではむしろ誰もが平静に暮らしている。居住区は第6層と第7層だけになったが、幹部たちも「技術的にはこの2層は半永久的に維持できる。」と言い、みんなそれを信じているような顔をしている。しかし俺は違う。幹部の一部も気づいている。現に、今回の探検が許可になったのも、地下にもぐっているだけでは解決できない「技術的問題」を幹部会が認めたためだ。
第2層への層間ドアは探検車の中からスイッチひとつであっさり開いた。さっきと違って、高さ30メートルのドア全体が、地響きと共に左右に開く。中間室も抜けて、第3層とよく似た第2層の中央道路を快調に走った。探検車はなにしろ重いので時速30キロが精一杯だが、それでもシティのどんな乗り物よりも早い。
中央道路の両側数十メートルのところまで、岩石の山が迫っている。後で掘り足した第4層以下はせまいので、掘られた岩石のほとんどは第1層と第2層に収まっている。第2層を半分ほど走ったところで、前方に水たまりが見えてきた。近寄って停止し、モニターカメラの角度を下げた。ライトの光の中で、あちこちに波紋が広がり続ける。天井から水が滴り落ちているのだ。「これですね。問題の水は。」「そうだろう、前回の探検報告では第1層までずっとかわいていたというからな。」探検車の前部のマジックハンドを水たまりに差し込み、放射能の強さを測定する。「上はもっとひどいですかね?」「多分な」
実はこれが俺達の公式の任務だ。つまり、放射能水の侵入の様態を観察し、これ以上の侵入を防ぐ方策をみつけだすという任務だ。これまでのように防戦一方ではじり貧であることに、幹部会もようやく気づいてきたのだ。いささか遅すぎる嫌いはあるが、とにかくこちらから打って出ようというのはいい考えだ。
水はやはりかなり汚染されていた。「こないだの地震ですかね?」「うむ、だがこの天井があれくらいの地震で水漏れするかな?」「さあ・・・もしかしたら地面の上に何か重いものが落ちたんじゃないですか」
2箇月前に、軽い地震と思われる振動が観測され、それから2週間ほどしてから第5層の作業区の放射能がジリジリと上がり始めた。そのため事態を憂慮した幹部会が調査を決定したのだ。前から地上探検を提案していた俺に白羽の矢が立てられた。助手のダグは外層での作業に慣れていて、彼自身も志願したので加えられた。数年間の外層での作業で被爆量の大きいダグは、遠からず「引退」して第4層に放り出されるのが目にみえているので、死に場所として今回の探検を選んだのだ。
第1層への層間ドアの前にきて、俺は迷ってしまった。考えてみると、第2層に水が落ちてくるということは、第1層にはかなりの量の水が溜まっているかも知れない。層間ドアを開いた場合、第2層が洪水になる恐れがないとはいえない。「どうしようか?」「私が外に出て小さい方のドアをまず開けてみましょうか」「なるほど・・・だが地上に出るまでは2人ともできるだけ被爆したくないんだがな」「シティ全体が放射能水で包囲されるよりはいいでしょう」「マジックハンドで小ドアを開けないかな?」マジックハンドでキーボードを操作して、運よく小ドアを開くことができた。水は出てこない。どうやら大丈夫のようだ。大きいドアを開き、中間室に入る。
俺はダグを少しずつ評価するようになってきた。地上探検を進言してきたとはいっても、俺自身は他の市民と同じで、第6層と第7層以外には行ったことがない。上層や地上での実際の作業では彼の方が有能だろうし、死地におもむくというのに平静な顔をしている。だが、ひとつ気になることがあった。
「さっきの屑人間の寿命の話だがな。どうして彼らが何年も生きるなんて言いだしたんだ?君はそんなに迷信的にはみえないが」「私が言ったわけではありません。噂ですよ。」「君はその噂を信じているみたいだったぞ」ダグはややためらってから小声で言った、「同じ引退者を半年経ってからもう一度みたという外層作業員がいるんです。私の友人なんですが、いい加減なことを言うやつじゃありません」「・・・そうか・・・だがそんな報告はみたことないぞ」「引退者のことは誰も聞きたがらないので、我々もあまり報告しません」
屑人間のことがまだ気になっていたが、自分でも何が気になるのかはっきりしないので俺は口を閉ざした。屑人間が何年生きようが、後何日かでおだぶつの俺達にはもう関係のないことだ。
第2層側のドアを閉め、傾斜路を登り、第1層側のドアを開いた。第1層の地面は別に濡れていない。第1層も第2層と似ていて、中央道路の両側には岩石の山が迫っている。やはり途中に水たまりがあったが、第2層のものと大差なく、ただし今度は水は岩石の山からしみだしていた。
「何だ、あの・・・・細長いものは?」蛇みたいな、といいかけてから、彼が蛇など知らないのを思い出した。その蛇みたいなものは岩石のすきまから水たまりの中に入り込んでいた。動いてはいない。木の根だろうか、と俺は思った。第1層の30メートル上はもう地上だ。もし地上に木が生えていれば、ここまで根を伸ばしていても不思議はない。「パイプ、ですかね。でもこんなところに何で?」数メートルまで接近して、モニターの倍率を上げた。表面は海老茶色で、太さは5センチほどあった。俺は何も言わず、モニターを見つめ続けた。これがシティ外生物なのだろうか?
俺が5歳のとき、前回の探検隊が派遣された。3日経って戻ってきた彼らはひどい放射能症になっていたが、シティ幹部は例外的に彼らを第6層にとどめて、死ぬまで手厚く看護した。シティは彼らの話で持ちきりだった。皆興奮していた。しかし報告そのものは希望のもてる内容ではなかった。地上には生き物の影は全く無く、放射能の強さは依然として殺人的だった。電波の送受信の試みも徒労に終わった。最初の興奮が冷めると、人々は前にもまして口が重くなった。自殺者も何人か出た。我々が完全に孤立していると思ったからだ。我々だけが人類の生き残りで、その我々も遠からず放射性の地下水の挟み撃ちにあって野垂れ死にするのだとしたら、もう苦労して生活を続ける甲斐がない。そう思う市民がいたのも無理はない。しばらくの間、道端に立って様々な危機突破案を開陳する論者の声が市民の耳をさわがした。その中でも、飛行船を建造して地上を空から探検し、他の生き残り達を見つけるべきだという案は幼かった俺の胸を踊らせた。
しかし、半年経ち、1年経つうちに、人々は普段の暮らしに戻った。シティを維持するという仕事が目の前にあり、とにかくそれをこなしているうちに先々の心配など忘れてしまったかのようだった。放射能の侵入は色々な工夫によって遅らせることができたし、そうした一つ一つの勝利が市民を活気づけた。幹部会もまた、楽観的な解釈を流布して市民の精神の安定に努めた。やがて俺は8歳になり、将来の役割を選択するときが来た。男性市民の多くは短命で、平均寿命は40歳前後だ。男はたいてい放射能の侵入を防ぐ仕事を割り当てられるからで、どうしても被爆量が多いのだ。そのため、専門教育をできるだけ早く始める。俺の場合も8歳から専門教育が始まった。だが、若干夢見がちな俺の気質を見て取った教師達は、俺を科学部に割り当てた。科学部はシティの存続に直接結び付かない仕事をしている数少ない部門のひとつだ。
シティが始まったころ、人々はシティの目標として二つのことを掲げた。一つはシティの存続、つまりサバイバルだ。もう一つは全人類の文化を保存することだ。いつの日か子孫が再び地上で繁栄するときのために、できるかぎり多くの文化遺産を継承していこう、ということだ。最初の目標はいわば手段であり、二つ目こそが本来の目的であるとされた。
実際問題としては、シティのほとんどの市民はサバイバルの方に力を注がなければならなかったので、文化の方は1人1分野という大雑把な割当になった。例えば、シティにはバイオリンの弾ける男が1人いる。この男が弟子を取って次のバイオリニストを教育する。弟子を養成する前に先代が死んでしまう場合もあるが、その時は文献を頼りに他のものがその分野を継承することになる。現在シティの人口は約2000人だが、音楽の分野では例えば室内楽はできるがオーケストラはない。
俺を弟子に取ったのは進化生物学のハルコラン教授だった。彼が学校で一度講義したときにみせてくれたくさんの動物のビデオやスライドが忘れられず、科学部配属が決まったときにすぐ彼の弟子になることを志願した。進化生物学は余り人気がなかったので、極く簡単なテストの後、俺はめでたく入門することができた。教授はその時45歳、市民としては老人と言っていい年令だが、外層にでない職業のせいで若く見えた。
毎日4時間ずつ、俺は進化生物学研究室で過ごした。資料室でビデオや図鑑を眺め、質問があると教授の部屋に行って話をきいた。始めは動植物の色彩、形、そして動きにただ魅了され、動物の名前を夢中になって憶えた。1人で自由に資料室を使えるのは、いじめられっ子の俺にはうれしいことだった。同年令の憎たらしいガキ共よりもビデオの蛇やライオンの方がずっと親近感を抱かせた。教授もとても親切で、俺が質問することだけを丁寧に答え、特定の方向に誘導しようとはしなかった。
風邪を引いてベッドに横になっていると、咽が苦しくて起き上がってしまう。そんなとき、母のくれた刺激性の飴をなめながら、借りてきた動物の写真集を眺めたものだ。やっと寝付くと、熱っぽい夢の中でキリンの首にしがみついてアフリカの草原を駆けたりもした。
資料室にはおびただしい数の動物ビデオがあった。それらの動物の多くは災厄の日よりもずっと前にすでに絶滅していたのだと教授が話してくれた。俺の好きだったキリンやサイ、それにゾウ、ライオンなどは各地の動物園で細々と余命をつないでいたらしい。どうしてそうなったのか、と問う俺に教授は「まあ人間の数が増え過ぎたからだろうな」と苦笑いした。「シティの人間もどんどん増えているのですか?」「いや、シティは出産を制限しているから、ここ数十年は余り変わっていない。」「昔の人は制限しなかったのですか?」「たくさんの人達がいろんな考えを持っていた。だから意見を一つにまとめることができなかったのだろう。」
ビデオに出てくる青空はこの世のものとは思えなかった。空気の層がどこまでも続き、それが太陽の光を散乱して青く見えるのだと教授が説明してくれた。それはただ明るい青だけではなく、時には一部がピンクやオレンジ色に変わったりした。シティではナトリウムランプの黄色い色以外、空気に色が付くということはない。
「タケルさん、なんならマジックハンドでこの物体を採取しましょうか?」、俺の長い沈黙を彼なりに解釈したダグが尋ねた。「・・・うん、そうだな。検査箱にいれてくれ。」彼は慣れた手付きでマジックハンドを操り、その根っこらしきものを長さ20センチほどに切り取って、探検車の中の検査箱に格納した。早速表面の拡大像を観察する。肉眼では(といっても直接見ては放射能でこっちが持たないので検査箱内のビデオカメラで撮っているのだが)なめらかな表面だが拡大すると0.1ミリ程度の穴が一面にスポンジ状に開いている。切り口は白っぽい。「蛋白質がある。でもDNAはほとんどないな。」化学分析の結果を見て俺は首をかしげた。蛋白質があるということはこれが確かに生物があるということを示唆するが、それならDNAも相当量検出されなくてはおかしい。「顕微鏡切片を作りましょうか?」「いや、もしこれが木の根だとすれば、地上に出て確認したほうが手っ取り早い。」
第1層の出口のドアの前に探検車が達した。「ダグ、地上に出たらまずシティとの無電連絡を確認してくれ。」地上にはシティから世界各地に無電連絡するためのアンテナが出ている。ここ数十年何の連絡も入ってこないが、それはこの設備が壊れているためではないということを第1次探検隊が確認していた。我々もそれをシティとの連絡に使う予定になっている。とにかくそっちは彼に任せて、俺は木を探すつもりだ。探検車のコンソールからの信号でドアは左右に開いた。中間室に入り、背後のドアを閉める。残るは地上へのドアだけだ。コンソールの上で俺の手が少し震えた。そして、地上ドア開放の信号を出した。
傾斜15度の通路の延長にいきなり真青な空がみえた。隣でダグが息を呑んでいる。20秒後、探検車は地上に出て停止した。ビデオカメラを360度ゆっくりと回して四方を観察することにした。後には今出てきた出口が盛り上げっている。ドアが閉まった。シティの真上には元々地上構造物はない。探検車のキャタピラーの後が土の地面についている。右前方には数キロ離れて都市の廃墟がみえる。数本の超高層ビルが多分百年前の姿そのままにニョコニョコと突き出ている。
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ここまで読まれた方はわかるようにこの小説(仮に「シティ」と名づけておく)は近未来の世界破滅SFの一種である。「核物質との危険な戯れは結局ほとんど地上の全生命という代価を強いたが」という一節がそれを示している。ところで、この災厄を招いたのは実は核戦争ではない。核エネルギーを電気に変える非常の効率の良い方法が開発されて、世界のエネルギー消費が数年間で2桁上がったそのときに、予想されなかった連鎖反応が世界各地の発電所の間で発生したのだ。シティの居住者たちがなぜ生き延びたかと言えばシティは厳重な防護壁で地上から遮断されていたからだが、なぜそんな施設があったのかについては明らかにされていない。私の頭の中でもそれははっきりとしていない。しかし、たとえ想像上の世界ではあっても考え続けていけばつじつまがあってくるはず、というのが私の信念なので、もっと後になればこの点もはっきりしてくるかもしれない。
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(#2、891020)地上は死の世界ではなかった。かつての舗装道路の表面に走る亀裂から雑草が生い茂っている。西側に見える山の斜面の木はすべて枯れて死の林になっているが、あちこちに緑の下生えがある。シティの真上にあたる地上に何かあるのに気づいたのは数分経ってからだった。というより、それが何か予想外のものであると気づくまで、というべきか。灰白色のタマネギ型の物体で、高さは40mもあろうか。はじめはかつての建築物の名残かとも思っていたがよくみれば窓も何もなく、しかも地表近くには茶色っぽい根のようなものが何十と突き出して地面に潜っている。
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タケルはそのときまで空を見たことがなかったのだから、かなりショックを受けたはずである。子供の頃からビデオでは見ているわけだからまんざら知らない景色ではないわけだが。ちょうど我々がしょっちゅう宇宙空間の映像を見ていながら実際自分では行ったことがないのと同様である。多分方向感覚を失って吐き気がしたことだろう。防護服の中で実際に吐いたらはなはだしく不愉快なことになったに違いない。
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(#3、日付なし)テレポートで体内に食物を運び込んでしまう。
体内で生きる人間。
体内は放射能が低い。
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これはこのタマネギ型の生き物の基本的性質及び人間との関係を書きつけたものらしい。自分で書いたものではあるが、もう数年経っているわけだし、その頃何をイメージしていたかは直接の記憶としては残っていない。とにかくこの書き付けのイメージは後にもそれほど変化しなかった。
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(#4、891021)「ガンダール」に取り込まれると、放射能汚染が治ってしまう。取り込まれるためには、あの茶色い触手に触るんだ。ガンダールの内壁(植物が生えている)を食えば生き延びられる。周囲に放射性物質がなくなると、ガンダールは一瞬で破裂し、基部だけが残る。そのとき、何十もの飛行隊となった子供たちが強い放射能を目指して飛び出していくんだ。
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ここでガンダールというこの奇怪な生き物の名前が初めて出てくる。ガンダールの基本的なイメージはこのときから変わっていない。すなわち、ガンダールの中に入ると放射能症が治ってしまい、中で生活できるということ、そして入るときは触手に触れるだけでスタートレックのトランスポーターのように一瞬で内部に転送されてしまうということ。
ところで#3や#4の語り手はタケルやダグではない。人間たちがガンダールについてかなり経験を積んだ後での誰かの発言である。言葉使いからすると子供向けの科学読本か何かかもしれない。
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(#5、891022)地表に近い茶色の根は、さっき第一層で採取したものと色や形が似ていた。「植物でしょうか?」「かもしれんが、俺の見たビデオの中にはこんなのは出てこなかったな。」地盤が崩れたのはこいつのせいですかね?」「うん、根が地盤を割ってしまったんだろう。」「攻撃して殺しますか?」「どうやって?あまり手荒なことをやると地盤が余計つぶれるぞ。」
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#5は#2から続くシーンで、ここではまだガンダールという名前も、その性質も2人には知られていない。この後、タケルとダグの2人を地上に残したまま、これに続く断片ではガンダールのことがいろいろな面から記述される。
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(#6、891023)ガンダールは人間の攻撃に対しては無力である。放射性物質を簡単に処理し、食物をテレポートで体内に移動させてしまう、驚異的な能力を考えるとこれは不思議なことだが。ガンダールに必要なものが放射能だけなら、何で獲物全体を体内にてレポートして運び込むのか?
この辺は人知では計りがたいところ。
共生ともいえるが、ガンダールの方は別に利益がない。人間はガンダールの中で放射能を落とせるからいいけれども。
触手の先端が強い放射能を検知すると、そのへんのものまとめて体内にテレポートしてしまう。体内に入ったものは放射性の物質を全部吸い取られてしまう。
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「食物」とは言っているが、その後の記述から、取り込まれた人間は死ぬわけではなく、かえって放射能を落とせると言っている。これは#4の記述とも一致する。この断片は科学者のフィールドノートのようだ。ところで、ガンダールのことをシティに紹介したのは、これも我々の知る限りタケルとダグであると考えるべきだろう。
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(#7、891030)ガンダールは実は動物の排泄物を食料にしている。中に取り込まれた人間はガンダールの内壁を削って食べて飢えをしのぐこともできるし、他に取り込まれた動植物も食べることができる。ガンダールの時間逆行能力により、体内には放射能に影響される以前の姿を保った草花や潅木が生えている。
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ここで「ガンダールの時間逆行能力」というのが初めて出てくる。テレポートも相当な超技術だが、時間逆行となるとそもそも概念的に理解が難しいところが出てくる。この言葉が何を意味するかについては後にもう少し明らかになることを期待しよう。
客観的な断定口調からして、この断片はガンダールについて書かれたかなりまとまった本の中の一節のようだ。ところで、#6では人間との強制はガンダールにとって利益がないとしていたが、ここではガンダールが動物の排泄物を食料にしている、というから#6よりも後にそういう事実が発見されたのだろう。
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(#8、891030)そうですね、今じゃ我々は放射能のことも気にしません。2、3日ガンダールの中で養生すれば全部抜けるし、癌なんかも治ってしまうんですから。いえいえ、器質的な病気とか伝染性の病気はだめですよ。放射能に起因するものだけです。ガンダールの体はナイフで切れるから、そうやって外へ出てもいいけど、それだとそのガンダールが死んでしまうんですね。入るときは分裂間近なのを選ぶんです。そうですね。根の茶色が濃くて硬い感じになってきたら近いんです。定着前のガンダールに入って、遠くへ旅行する、なんてことを試みた者もいます。2、3人いたけどまだ誰も戻ってこない。まあ、どこかで元気にしてるのかもしれないですけどね。若いガンダールが一飛びでどのくらい移動するのか、我々にもあまりよくわからないんです。
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これはすでにガンダールの中で住んだことのある人の証言らしい。ガンダールは放射能をエネルギー源にしているだけでなく、地上が放射能で被われる以前の環境をその体の中で実現しているのである。人間の腸の中で嫌気性細菌が生きているようなものだ。進化的には嫌気性生物がまず繁栄したが、彼らが炭水化物を分解してエネルギーを得る際の副産物の酸素が彼らにとっては毒だった。そこへ登場したのが酸素に耐えるだけでなく酸素を使ってエネルギーを得ることのできる好気性生物である。今では嫌気性生物は沼の底とか、動物の腸の中とかで細々と生きている。
#7ででてきた時間逆行というガンダールの能力が、病気の治癒ということに関しては実は放射能に起因する病気にしか働かないらしいということがこれでわかる。
ガンダールの自己複製手段として、ここに「分裂」という言葉が使われている。単細胞生物のように複数に分裂して増えていくのか。また、「定着前のガンダール」とか「若いガンダールが一飛びで」という表現もあるから、分裂してできた複数のガンダールはすぐには定着せず、なんらかの方法で「飛ぶ」らしい。
この断片はどうも誰かにインタビューを受けて答えたという雰囲気である。今のところマスコミが存在しそうな場所といったらシティの中しかないから、これはガンダールに住んだ人が後でシティに戻ってきたことを示唆している。
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(#9、891031)ガンダールの文化?
ウーン、どうなんでしょう? 我々から見る限り彼らは植物です。例のテレポート能力を発揮しているとき以外はね。彼らにどういう文化があるか知らないけど、我々が彼らの眼中にないのは確かですな。中世の人間がヴィールスのことを知らなかったようなもんでしょう。
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さっきの証言の続きだろう。ガンダールを植物であると規定したのはこれが始めてだろう。もともとタマネギ型だとか根がどうしたとか植物的に記述されていはいるが。
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(#10、891102)引退者たちの1人がガンダールの根の先に触れたのは1年前にことだ。第3層からガンダールの体内に飛ばされた彼は、中に生えている植物や小動物を捕って生き延びた。バクテリア栄養の加工品しか食べたことのない男としてはよく適応したものだ。やがて、第2、第3の引退者が同じように根の先に触れ、体腔内の人口は少しずつ増えた。最初彼らはここが昔の伝説にいう天国であろうと結論したが、やがて、白い壁の向こうに何があるのかを知りたくなってきた。
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今度はガンダールと人間のファーストコンタクトについて語られている。ここで1年前というのは何を起点にしているのか。タケルとダグの探検について書いたばかりだから、多分その時より1年前ということだろう。タケルたちは第3層でガンダールの根を見ているのだから、引退者がすでにガンダールの中にテレポートされていた可能性は十分あるわけだ。
この断片は神様の立場にいる語り手によって語られているようだ。タケルの話と時間的な関係が付けられていることからも、タケルの話を続ける小説の地の文と見ていいだろう。
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(#11、891103)ガンダールたちがその体腔内で多くの動植物を生育させようとするのは、それらの遺伝情報を利用しているからだ、という節がある。それに対しては、いや、ガンダールが放射能から守られた体腔を持っているのは自らの生殖細胞を守るためであって、動植物はただ寄生しているだけである、という反論があり、目下のところどちらにも決定的な証拠が挙がっていない。ガンダールの組織を切り取って調べてみると、確かに細胞の集まりである。(続、891120)大根の水気を少なくしたような組織だ。植物特有の細胞膜もある。
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これは科学雑誌のレビュー記事のようだ。#6の場合と同じく、我々の知る限りではこの時代に残っている人間社会というのはシティだけであるから、こうしたガンダールの正体に関する議論はシティの人々がガンダールについて知るようになってからシティの中で行われたのだろう。
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(#12、891103)昨日ビデオでライオンとシマウマを見た。シマウマは草を食べ、ライオンはシマウマを食べる。走る、走る、何百メートルも。そして気が遠くなるほど向こうに山がある。空は・・・天井がなくて空気が青く見えるのだという。地上から帰った人達がみんな死んでしまったけど、いつか僕も行きたい。(タケル、10歳の日記)
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これは珍しく「タケル、10歳の日記」と出所が特定されている。タケルが地上に行くことを夢見ていたことはすでに#1で彼自身が告白していた。もっとも、シティの住民は地上はまだ放射能が猛威を振るっていたことを知っていたのだから、地上に行ったからと行ってライオンやシマウマが見られると信じていたわけではないはずだ。
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(#13、891103)問題は人間の尊厳ということです。あんなタマネギの化け物に養われていきるなんて。我々は家畜でも寄生虫でもない。そこまでして生きたいのですか。人類が地球の支配者でなくなるならそれも良し。いさぎよく滅んでみせましょう。(ガンダールを拒む会)
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これはガンダールの存在とその能力がシティの人々に知れた後の一部の人々の反応を示していて興味深い。「ガンダールを拒む会」がある以上は拒まない人々もたくさんいたはずで、むしろそっちが多数派だったことがこの拒む会の発言のかたくなさから汲み取れる。放射能症が治癒するというのは当時のシティの人々にとって何よりも魅力的だっただろう。
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(#14、891105)奇妙なことに、ガンダールの存在がうわさとしてしてシティ内に広まったとき、皆の反応は否定的だった。人々は却って絶望の度を深めたようだった。
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これが本当だとすると#13の後の私の推定は外れていて、人々はガンダールに好意を持たなかったことになる。
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(#15、891106)結局人間はもう万物の霊長ではないのだ、という者がいる。しかしどうだ?
ガンダールのどこが我々より優れている? あれは放射能に適応し、利用しているだけの存在だ。
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人間である自分達が地上に出られず地下で細々と生きているだけなのに、下等な植物みたいなガンダールが地上を闊歩しているのが気にくわないということらしい。
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(#16、891107)ガンダールの中で楽な生活におぼれるより、シティでの厳しい生活で人間の文明を守るのだ。
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#13、#15、#16をまとめて考えてみると、前二者の否定的感情は一見ガンダールに向けられているようでいて、実はガンダールに移り住んだ人々に向けられているのだろうと推し量ることができる。従って#13の後で私が書いたことは必ずしも外れていたわけではない。この3つの断片はかなりの人々がガンダールに移り住んでシティが危機感を持っていたときの発言なのだろう。#14は、少数の人間がガンダール内で生存していることが初めてわかった、もっと早い時期なのだ。
それにしてもなぜ人々が却って絶望の度を深めたのか。#1でタケルが指摘しているように、シティの放射能に対する戦いは長いことじり貧の様相を呈していた。シティでの生活は確かに厳しい。住民たちはその厳しい状況に対して強い克己心と道徳観を養うことで対処してきた。そうした中で、ガンダール内でのあまりに牧歌的で一見怠惰な生活が#16のような反発を生んだのだろう。#14についても、放射能と常時戦わなくても済むガンダール人(ガンダールの中で生活する人間たち)を見て、シティの人々が自分達の道徳観の基盤を崩されるような、生きる目的を奪われたような気持ちになったというふうに考えれば理解できる。初期のそうした反応の後で、一部の人々は価値観を転換して積極的にガンダールを受け入れ、その他の人々は古い価値を守ろうとしてますますガンダールへの反発を強めたのだろう。
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(#17、891108)若いガンダールたちがどういう手段で移動するのかははっきりわかっていない。
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#8に「定着前のガンダールに入って、遠くへ旅行する、なんてことを試みた者もいます。」とある。ガンダールは定着生活に入る前にかなりの距離を移動するらしく、#17はその移動を可能にするメカニズムがわからないと言っているのだ。この断片は#11などと同じく科学者が書いたもののようだ。
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(#18、891108)ガンダールはテレポートを可能にするような偉大なエネルギーを持ちながら、一方ではきわめて植物的である。また、動植物と共生する必要があるらしい。このアンバランスについては研究の余地がある。
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これも科学者のノートか何かだろう。共生についての考察はすでに#11にも出てきていた。
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(#19、891109)ガンダールには社会のがあるのか?
彼らすべてを結ぶ通信網があるという説をたてるものもいる。
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これは#18と出所が同じみたいだ。ガンダールの社会という概念が初めて考慮されている。
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(#20, 891110)ガンダールに出会って初めて人類は自らの認識の限界性を見たのである。そして自らが進化の主役から降りたことも。
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これは科学というより哲学的諦観を吐露している。「自らの認識の限界性」というのは多分ガンダールの特殊能力であるテレポートや時間逆行能力が科学的に解明できないという事実に直面したことから来ているのだろう。人類が「進化の主役から降りた」というのはガンダールに寄生する人間が増え、それが人間の生き方の将来像を示していると考えられたことから、進化の主役が人類からガンダールに移ったという見方が生まれたのだろう。
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(#21, 891111)ガンダールのテレポート能力の不可思議さは、人間の分析能力を受け付けない点にある。
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テレポートなどという能力を解明するのはとてもむずかしいことは論を待たないだろうが、しかしこの断片で言われているのはただむずかしいということではなくて何か原理的な不可能性であるようだ。
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(#22、891112)無力な寄生生物である人間に、ガンダールが簡単に殺されるのは、月ロケットを作った人間が風邪で死ぬようなものだ。
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こういうふうに人間を卑小に見る雰囲気がある時期強かったのだろう。人間がガンダールに寄生してやっと生き延びるというイメージはシティの人々にとって一方で我慢のならないものであり、他方では地下からの解放を意味する点で大きな魅力もあったのだ。
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(#23, 891114)ガンダールの繁殖がどうのようにして行われるかは依然として謎である。目撃者は何人かいるが、彼らの記述は互いに矛盾するところがある。
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また科学者風のメモである。
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(#24, 891116 )「簡単なことだ。若いガンダールが移動する瞬間をビデオカメラで捉えればよい。繁殖の瞬間だって撮れるはずだ。」「ところが実際には撮影の試みは余りうまくいってない。だいたい、ガンダールが好んで居着く場所は放射能も強い場所だ。ビデオカメラを正常に働かせるのが難しい。」「第一、ガンダールと関わりを持つとたいていの人間はそういう知的探求心をなくしてしまうんだ。」
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#21のところでも指摘したように、ガンダールを科学的に研究するときの障害はただ難しいというだけでなく、知的探求心という研究する主体の側の特性の変容が手ごわいのだ。
ところでこの会話は、人間たちが危険を犯して地上に出てガンダールを研究しようとしたその現場の様子を伝えていて面白い。タケルとダグの後に続く探検がかなり行われたのだろう。
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(#25, 891117)ガンダールの体腔内では人間の体の奥深く染み込んだ放射性物質が取り除かれ、また、放射線を原因とする疾患が治癒する。そして、この経験はどうやら人間の精神にも微妙な影響を与えるようだ。一般に、ガンダールを経験した人々は温和になり、自我が拡散したような印象を与える。
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#4、#7、#8ですでに言われている放射能症の治癒についてまた触れられているのだが、ここで初めて人間の精神に対する影響についての観察が総括されている。#25の「自我が拡散した」と#24の「知的探求心をなくしてしまう」は互いに呼応している。
#1によれば、いくら防護服を着ていても人間が長時間地上で生きられそうもないから、地上に行ってガンダールを研究した人々は生き延びるためにガンダール内にテレポートして放射能症を癒したと思われる。その結果が「知的探求心をなくしてしまう」ことになり、そんな彼らを見たシティの人々が「自我が拡散した」という印象を持ったのだろう。
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(#26, 891118)ガンダールを発見したのは引退者の一人であるが、長い間シティ内の人間はその存在に気づかなかった。第2次探検隊のタケルとダグがガンダールの根の一部を第一層で見つけ、地上に出て本隊を観察したことは、タケルの遺した手記に詳しい。
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内容的にはほぼこれまでの断片ですでに述べられていることだが、「タケルの遺した手記」に「遺した」という表現があるところが注目される。これはタケルが地上で死んだことを意味するのだろうか。#1の内容から見て、タケルたちがガンダールの中にテレポートしなかったとしたら、確実に地上で死んでいただろう。彼らが死んだ後で後続の探検隊が手記を発見したと考えるべきか。「遺した」というのはタケルがシティに戻ってから手記を書いて、死ぬときにそれを遺したとも解釈できるが、もし生きて帰ったとしたら、比較的すぐに探検の様子を書いて発表したはずで、死ぬまで待つというのはおかしい。やはりこの断片を信じる限りタケルは地上で死んだのだろう。
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(#27, 891118)ガンダールの発見以来、人々はガンダールの能力に分析的な目を向けるよりも、むしろガンダールの存在を無条件に受け入れ、それに基づいていかに生き延び、そして繁栄するかに腐心し始めた。ガンダールに対する人々の態度には畏敬の念が疑いもなく混じっていた。それは主にガンダールの持つ治癒力への尊敬である。人類はけだし分析と総合のバランスを失って滅びかけたのだ。過剰な分析と貧困な総合力。治癒とは総合のことである。
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ここに描かれているシティの人々は、#13、#15、#16にみえるガンダールへの反発からその存在が予想された親ガンダール派とでもいう人々だろう。それと、今までの断片では語られなかったガンダールへの宗教的な帰依とも受け取れる「畏敬の念」について多少触れている。古くはイエスキリストが人々の病を癒したとされているし、現代でも新興宗教の教祖はしばしば病気の治癒力を喧伝している。シティの人々がもっとも恐れていた放射能症をガンダールが治してしまうと聞いて宗教的な帰依心が生まれるのは無理もない。
この断片には社会学的な観察と、人類という大きな単位での哲学的考察が見られる。系統的には人類が進化の主役から降りた、という表現を含む#20に連なるもののようだ。
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(#28, 891120)ガンダールの個体には植物的な土台の上に、あるいはその中に、が宿っている。そしてそれはガンダールが繁殖する度に子孫に受け継がれる。ある分子の塊がかつて生命という過程を宿し始めたのと同じくらい、それは大変な出来事だ。
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この「恐ろしく強力なある過程」というのはガンダールのテレポートや時間逆行を可能にしている何かなのだ。それは普通に我々が知っている生命過程とはかなり違っているが、それでも子孫に受け継がれるという点で生命的なものなのだ。この断片ではこの新しい過程の誕生が我々の知る生命の誕生と同じくらい重要な出来事だと主張している。ここに提示されている科学的洞察と哲学的洞察は、当否はともかくとして、この「シティ」という小説世界の核心に触れていると考えられる。
これは#10と同様に小説の地の文の体をなしているとも見えるし、あるいは#27を書いたのと同じ人間が書いた文章なのかもしれない。
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(#29, 891119)ガンダールに関する記述が目撃者によって相矛盾する理由の一つは、ガンダールの個体間の変異が大きいことである。
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#18、#19、#23などと同様、科学者のメモらしい。ガンダールについては目撃者の証言が互いに食い違うことが多かったらしい。その理由の一つとして個体間の変異の大きさを挙げているのだが、実際に確かめたのか妥当な説として言ってみただけなのかは判然としない。
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(#30, 891120)ガンダール同士で、体腔内の動植物をやり取りすることがある。どうやらその目的は、安定した生態系を持つことにあるらしい。その場合、根の先端同士をくっつけて、片方の中にいる生物をもう片方にテレポートする、という説もあるが定かではない。人間にもこれを経験した者がある。
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#7、#11などでガンダールが体腔内の動植物を必要とするのかどうか、必要とするのならなぜそうなのかといったことが論じられている。この断片もその系統である。生態学者風の書き方だ。ところで、ガンダールが本当に安定した生態系を保とうとしているのなら、かなりの知能があると考えなければならない。それともガンダールはただランダムに体腔内の動植物をやり取りしているだけで、結果的にそれが健全な生態系の維持に役立っているだけなのか。
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(#31, 891122)ガンダールの中で生活する人々が増えてくるにつれ、彼らの子女の教育問題が持ち上がった。ガンダール内に教科書やビデオを持ち込むことはできないのだ。シティではガンダール内で育ちつつある子供たち全員を収容して教育するだけの設備がない。一つのガンダールにはせいぜい大人2人と子ども2人しか住んでいない。それ以上になると、そのうちの1人は数日のうちに別のガンダールにトランスポートされる。したがって、子どもに限らず、ガンダールの住人は社会というものから隔絶されているのである。
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これによるといわゆるガンダール人の人口はかなり多かったようだ。子供の数がシティに収容して教育するには多すぎるというのだから。しかもシティとの行き来の方法は確立されていたことがわかる。すなわち、問題になっているのは子供の数であって彼らをシティに連れてくる方法ではないのだから。#1によればタケルの地上探検のときのシティの人口は2000人である。となると、ガンダール人の人口もそれに匹敵するくらいにはなっていたのだろう。そしてこの断片はタケルのころから少なくとも一世代は後に書かれたに違いない。ガンダール内での子供の教育問題が発生するには、それくらいの時間がかかるだろうから。
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(#32, 891123)ガンダールに知性があるかという問題は微妙である。どのような意味にせよ、ガンダールとの交信に成功したものはいない。しかし、ガンダールは体内の動植物の生態系の安定と豊かさに細心の注意を払っているように見える。生態系が不安定になってくると、新たな生物を導入したり、あるいは多すぎる種を別のガンダールへトランスポートしたりする。性質の異なる、できる限り多くの種が調和して生きることを目的としているとしたら、それはかなり高度な知性の表現である。
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#30の後で私が呈示した疑問について考察している。ここでは体腔内の動植物のやり取りはランダムではなく目的を持っていると推察されている。とりあえず確かなのは、ガンダールとの直接的なコミュニケーションを果たした人間は少なくともこの時点では知られていないということだ。
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(#33, 891124)ガンダール人、と後に呼ばれるようになった人々は、一生のほとんどをガンダール内で過ごす。彼らはガンダール内の生態系の調和を保つことに力を注ぐ。調和が極端に崩れた場合、そのガンダールの個体が死ぬことがある。そうすると、中の生物の大半も閉じ込められて死ぬか、あるいは脱出できても外界の強い放射線に曝されることになる。
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ブライアン・オールディスの「地球の長い午後」では人間より優秀な知能を持ったアミガサタケが人間に寄生してその行動を支配する話があった。人間はガンダールの行動を支配するわけではないが、ガンダール内の生態系の調和を保つというデリケートな作業はガンダールそのものよりも中にいる人間の方がうまくやるだろう。人間はその知能でガンダールに奉仕し、そのかわりに住む場所を与えられているわけだ。そういえば魚の世界にも、大きな魚の口の中を掃除して、そのかわりに外敵から守ってもらうという小さな魚が存在した。わりと安定した共生関係といえそうだ。これがずっと続けば、ミトコンドリアが寄生生物から細胞内器官に変化したように、人間もガンダールも完全にガンダールの一部に化するかもしれない。
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(#34, 891124)ガンダールの体腔の底面は生物の死骸を吸収する性質を持っている。といっても実際に有機物を分解しているのは土壌細菌であろう。ガンダール自体の組織が内部の生態系とどういう関係を持っているのかは明らかでない。この組織には光合成能力はないので、内部の生態系の生み出す有機物から栄養を得ていると考えられる。逆に、内部の生物に体壁を食い破られて死ぬ個体もある。
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#7、#11、#30でガンダールが寄生生物をどう利用しているかについて議論されているが、これはその続きである。#7で「ガンダールは実は動物の排泄物を食料にしている」というのとこれは近い。ガンダールに光合成能力がないとすると、内部にある植物の光合成に頼るしかないことになる。それとも外からテレポートしてきた植物から有機物を得ているのか。#2によるとタケルは地上で雑草を見ているから、それも不可能ではない。ところでガンダールの中は人が住んだり植物が生き続けられるのだから、明かりがあると考えられるが、それは外の光が外壁を透過してくるのか、それとも内壁が発光しているのだろうか。
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(#35, 891125)今やほとんどのガンダールの内部には人間が住んでいる。人間は内部の生態系を調節することができるので、人間の入っているガンダールは長く、健康に生きる。
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#33で示唆されていた人間とガンダールの相互扶助が普遍的になってきたようだ。
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(#36, 891126)枯死したガンダールの体腔内に残る生物種を求めて、他のガンダールが動根で体壁を貫通してくることがある。この場合、一部の生物は新しいガンダールにトランスポートされる。この場合、特に選択性はなく、最初に動根の先に触れた生物がトランスポートされる。
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「動根」という用語が初めて使われている。これはタケルたちが見た茶色の根(#1)のことを言っているのだろうが、「動」というからには普通の植物の根と違って動き回ることができるらしい。ところで、初期の断片ではテレポートと表現されていたものがいつからかトランスポートになったようだ。現象としては同じもの、すなわち根の先に触れたものを内部に瞬間移動させることである。
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(#37, 891127)早晩、すべての人間がガンダール内に住み、すべてのガンダールが人間を体腔内に持つことになるだろう。人間は独立した種であることをやめて、ガンダールの器官の一つとして機能することになる。その機能とは体腔内の生態系の調整である。これはある意味で、人類が地球規模で果たそうとして果たせなかった役割である。
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#33の後に書いたことがすでにここに書かれていたわけだ。
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(#38, 891129)シティのガンダール利用法諮問委員会の答申
○早急に調査すべきこと
(1) 放射能に起因する疾患のガンダールによる治癒の医学的検証。
(2) ガンダールへの出入の安全な方法の確立。すなわち、人間が地上放射能に曝されることなく、またガンダールをできれば殺さずに住む方法。
○長期的な研究
(3) 放射能に対するガンダールの特異な能力を物理的・生物学的に解明すること。
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これはシティの公文書であるらしい。この中の(1)についてはすでに#25等で言われている。(2)については#8等がすでに触れている。(3)についても、その研究の難しさが#24等で指摘されている。従って情報としては新しくはないが、シティの政府の公式的な対応がわかるところが興味深い。
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(#39, 891130)ガンダールの体壁はよく光りをよく通す。内部で植物を基本とする生態系が成り立つのもそのためである。しかし、このことにより、ガンダール自身は光合成をせず、従属栄養型の代謝を行っている。
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